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Columns: Communication

空気の読める社会(1)

Communication | Society

以前、子どもたちの間では「空気が読めないこと」が最も嫌われる、という話があったが、これは、大人の間でも共通しているようである。価値観が多様化した、とされる社会では、「素直に」考えれば、ハイコンテクストな(共有する文化的・社会的背景や情報が多い)コミュニケーション空間からローコンテクストな(共有する文化的・社会的背景や情報が少ない)コミュニケーション空間へと変化するということであり、「コミュニケーション」の本来の意味である、(特に異なる価値観の人の間での)意思疎通のためにはより明確に言語化した対話が重要になると考えるのが一見自然である。

しかしその一方で、冒頭の「空気を読む」というのは、明確に言語化されたコミュニケーションの手法とは全く異なるようにも思われる。このねじれは、一体どういうことを意味しているのだろうか。今回のエントリでは「多様な価値観」「コンテクスト」という2つのキーワードについて触れ、次回のエントリで引き続き「コミュニケーションの種類」という観点からアプローチを試みたい。

まずは「多様な価値観」について。「価値観が多様化した」というのは何らかの説明をしたい時に、理由付けとしてなかなか使い勝手の良い文句であり、自分でも結構使ってしまったりしているのだが、1つにはそもそも本当に日本人の価値観は多様化しているのか、ということがある。どうも、今の日本では「多様な価値観」がマジックワード化しているように思える。図1は「コミュニケーション学 その展望と視点」から持ってきた「コンテクストの国別指標」(Samovar & Porter(1997)の又引き)だが、1997年の論文にして日本は最もハイコンテクストな文化の1つとして位置づけられており、感覚的にも今なお均質性の高い文化・社会であるという方がしっくりくる。

コンテクストの国別指標
図1 コンテクストの国別指標(出典: 「コミュニケーション学 その展望と視点」)

実際、家族(やや変わりつつあるとはいえ)、恋愛・結婚、仕事、カネといった主要な価値観は根強いままであり、依然として社会的圧力として機能しているのであって、十分に「多様」であるというにははなはだ心もとない。むしろ、多様化をしきりに強調するのは、マイノリティが社会に受け入れられることを要求するための方便であるとさえ言えなくもない(マジョリティはあえて多様化の必要性・重要性を強調する必要がない)。一般的に、ある種のマイノリティに属する人は常にマジョリティに属する人よりは、他の、自身とは異なる別のマイノリティにも寛容であると思われるが、自分の身に引き当てても、真にあらゆる多様な価値観に対して、フラットに対応できる(=相手を尊重できる)ほど、人間というものが強いとは期待しにくいところがある(※1)。

(※1)真にあらゆる価値観に対してフラットであるとすると、マイノリティを迫害、疎外することを肯定する価値観を持った人たちにもフラットでなければならないのか、という話もあるが。

とはいえ、共有可能な生き方モデルの喪失や、「趣味・嗜好」など、確かに実際多様化している部分もあり、異なる話題を持った人たちの話の噛み合なさは、もはや単に世代論で片付けられないところもあるから、ここでは「価値観は多様化しつつある」ということとする。

一方、ハイコンテクストとかローコンテクストとかいう時の、コミュニケーションにおける「コンテクスト」とはどのようなものを指しているのか。先の「コミュニケーション学 その展望と視点」からもう一度借りれば、

「できごとを取り巻く情報であり、そのできごとの意味と密接に結びついているものである」(Context is the information that surrounds an event; it is inextricably bound up with the meaning of that event.)

ということであり、加えて「静的な文化のコンテクスト」と「動的な状況のコンテクスト」の2つがあると同書ではまとめている。どうやら「空気」について考えるには、この辺りをもう少し掘り下げる必要がありそうである。具体的には、図2のように、コミュニケーションコンテクストは、時間の長さや空間の広さの違いによる多層構造を持っているもの、と考えられる(※2)。

(※2)多層とは言っても、完全に下層のコンテクストが上層のコンテクストの前提になる、ということではなく、「静的な文化のコンテクスト」と「動的な状況のコンテクスト」は並列して存在すると考えられる。

コンテクストの多層構造
図2 コンテクストの多層構造

このような多層構造で見てみると、「空気」は、「コンテクスト」が意味するところにかなり近いが、状況よりのコンテクストを主な対象としている。「多様な価値観」の参加者による「ローコンテクスト」なコミュニケーション空間と言っても、その多様さ・コンテクストが想定するレイヤと「空気」は必ずしも矛盾するものではない。

では、一体何故、今の日本では「空気を読む」ことがこれほど重視されるのか。1つには、昨今様々なハラスメントが話題になっているように、人の感情を害すること、気分を悪くする事を極端に避けようとすることがある。しばしば聞かれる「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」というのは、逆に言えば、「人に迷惑をかけることは避けたい」ということである。総じて、人間関係が脆くなっているということなのかもしれない。そのような中で、「価値観の多様化」ということになると、共有しているコンテクスト(比較的静的なコンテクスト)がだんだん減ってくる訳だから、会話の流れや相手の感情の変化を素早く読み取って臨機応変に対応していかなければ、まさに私たちが避けたがっている、人の感情を害する状況に、すぐに陥ってしまう。伝統的な「あうんの呼吸」はもはや死語なのかもしれないが、多くのコミュニケーションシーンでは依然として行間の大きい場合が多く、「静的な文化のコンテクスト」が相対的に小さくなった分、「動的な状況のコンテクスト」を読む力がより要求されてくるのである。

「空気を読む」力とはすなわち、価値観が多様化しつつある中で、あくまで人を不快にさせることなくスムースにコミュニケーションを行うためのコンピテンシーである、と言える。

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Posted: 2005年08月24日 08:11 | Trackback このエントリーをはてなブックマークに追加
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コメント

やはり、下からの革命を経ずに近代化したため、人々の意識に「村的な要素」、あるいは「封建世界的な要素」が色濃く残ったままになっている、というのが原因のような気もします。
だからって、今こそ左翼革命が必要だというつもりはありませんが。
「お上」意識と「ナアナア」意識が、都市化した社会の中で、さらに匿名化・メディア化したプレッシャーになっているということなのかも。

Posted by: umeten : 2005年08月24日 07:53

返事が遅くなりました。umetenさん、コメントありがとうございます。
「村的な要素」というのは仰る通りですね。人と人との関係の流動化やバーチャル化はしこそすれ、その瞬間瞬間に立ち現れるのは、異質なものに対して排他的な村的空間そのもの、ということだと思います。

Posted by: 秋風 : 2005年09月04日 18:58

今日初めて訪れました。教えてください。

例えば我々日本人が和服の暮らしに戻るのかというともう戻らない,戻れないと言えるように,従来のままのハイコンテクスト社会を維持するのかというと決してそのままでは維持しない,維持できないと思います。過去の遺産や文化に距離が生まれる寂しさも少しありますが,ローコンテクストだからといって他人行儀になる訳ではなく,むしろ村社会から解き放たれた個々人はより一層お互いを尊重し協調し合わなければ生きて行けないでしょう。短絡的な脱亜入欧では愚かですが,自省を怠らなければ脱村社会は基本的に良い方向というか自然な流れと感じます。今日ではインフラの発達も相まって異文化圏との往来や情報交換も増加しているので,そういった時代の変化を我々現代人は意識的にせよ無意識的にせよ何らかの形で肌で感じ取っていると思います。ところで,仲間内で目立ちたくない,他人を不快にしたくないという心理現象の裏には卑近には羞恥心とか美徳とかも含めて様々な心があるのでしょうけども,もうひとつ心の奥に,ローコンテクスト社会の大前提であるところの「話さなければ通じない」何故なら「人類はみな他人である」という了解を簡単には受け入れられず古くからのハイコンテクスト社会に安住していたい,隠れていたいという心理が働いているということはないでしょうか。お互いが他人であると認める覚悟,荒野に一人で立つ気概というと大袈裟ですが,なかばエゴともとれる強力な自己,そういった自我が希薄であるがゆえに。

例えば日本語で「私」という表現が周囲との関係性の都合で「俺」「僕」「わたくし」と変化するように日本人的な個は外的世界との相対的な関係性に依拠してきたように思うのですが,一方で,西洋的な「I」は心の空間の中で天動説のごとく絶対座標に近いのだと思います。相手が大統領でも自分の子供でも「I」と「you」で話が出来る西洋的な自我を前提になりたっているのがローコンテクスト社会であって,その自我が日本では十分に成熟しておらず,ローコンテクスト社会が目前に迫りつつあると知りながらも折り合いを付けられないままに尻込みしているのではないかと思うのです。ちょっと飛躍してますかね。

Posted by: ヤス : 2005年12月06日 15:30

ヤスさん、コメントありがとうございます。
返信が遅くなり申し訳ありません。

次回にもまたまとめようかと思いますが、価値観やライフスタイルが多様化し、共有するものが少ない、ローコンテクストなコミュニケーション空間になりつつあるにも関わらず、依然として、瞬間的にコンテクストを補完してハイコンテクストな「場」を作りたがる、というのが「空気を読む」ことがより高いレベルで要求されるようになってしまったことの背景にあるように思われます。

日本人の未成熟な自我の問題であり、今後状況は変わっていく可能性があるのか、というのは私には難しくて何とも言えないですが、可能性はあると思います。そういう意味では、今は過渡期なのかもしれません。

Posted by: sociologic : 2005年12月21日 08:46
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