Columns: Society
消費者天国のカラクリ
Societyウォルマートは環境保護の前に人間と地域社会を保護すべき
「もっぱらウォルマートの買い物客であり、かつそれ以外の何物でもない者」の利益
モノ・サービス余り(=提供されているモノ・サービス量に対して、消費者が支払えるカネ・時間・空間・アテンションの絶対量が少な過ぎる)の中で、一般消費者にとっては更なる低価格・高いクオリティ(*1)、富裕層には「特別感」の提供といった形で競争環境が激化しており(もちろんそんなに単純ではないが)、消費者にとっては天国だが、供給者(供給者)、特に現場で働く人たちにとって厳しい時代になっている。
(*1)典型的なところでは、「Cheap Revolution」などという言葉で語られ(これは技術革新による際限ないグローバル競争の激化ということであり、今回の主旨とはやや異なるが、実際はこれが一番大きいかもしれない)、インターネット上のブログやSNSなどのサービスは、通常、利用者に無料で提供され、事業者にとって恐らくほとんど利益が上がっていないにも関わらず、システム停止やサービスレベルの低下に対してはしっかり非難される。
そのような中で、私たちはある時点、それも恐らくは起きている時間の中でより多くの時間においては供給者であり、不況の中でリストラにより少人数でより多くの仕事をこなさなければならない上、消費者からの厳しい要求に悩まされており、そしてしばしば「顧客満足」のため可能な限り対応することを求められるにも関わらず、なぜひとたび消費者の立場では、過酷な要求を突き付けるのか(回りまわって自分に返ってくるのに想像力が働かないのか)、という疑問が沸くのは一見自然ではある。
このような疑問への回答の1つは、社会のあらゆる場面で余裕が失われていく中で、消費者の経済的な余裕が「それどころではない(売り手のことを考えている余裕はない)」ということで、最近まではデフレ下で企業の収益悪化→社員の収入減/リストラ→消費者の購買力低下→企業の収益悪化の負のスパイラルが発生していた可能性がある。冒頭のようなGMS/SM領域ではこれが当てはまるかもしれない。日本は、衣食住+αのコストが高く、最低限の人並みの生活をするのにもかなりお金のかかる国である。ただ、これだけでは昨今メディアで言われているような「景気回復」下での個人消費回復傾向の中では説明しきれない。
2つ目としては、精神的な余裕ということで、「ストレス解消の必要性が高まっているため」ということも考えられる。リストラによる企業のスリム化で、社員1人当たりの業務量は増えていることもあり、供給者の立場で、極めてストレスが溜まりやすい状況が発生しているため、消費者の立場では、ストレスを発散するために、ある場面では自分も供給者であるということを忘れてしまうという可能性である。自分へのご褒美型消費の拡大や、何かが欲しいというよりも、買い物自体が趣味になってしまう状況は、この説を支持していると言える。
しかし、もっと大きいのは、実はこの「生活者は消費者であると同時に供給者である」という前提自体が単に間違っている、ということではないだろうか。つまり、より供給者である部分が大きい人と、より消費者である部分が大きい人、あるいは、消費者であるが、供給者である時間を持たない人がいる、という非対称性である。
供給者として働いて手に入れたカネで消費者として振る舞うとしても、人は単独でモノやサービスの提供と購入が完結している訳ではない。通常、家族やカップルといった単位でモノやサービスと、カネが交換されるからである(もちろん、その単位の中では、専業主婦の労働価値が年収1500万円に相当するといった調査で示されるように別種の交換が発生しているが)。
加えて、富裕層のような不労所得者層・相続資産のような経済格差上発生する非対称性や、(一部の高水準の)年金受給者のような世代間上の非対称性が存在する。誰が消費においてより大きな権限を持っているかといえば、むしろこういう消費者であるが、供給者である時間を(比較的)持たない人たちではないだろうか。そして、供給者である時間を持たない人が、供給者の労働・生活に想像力を及ばせにくい(及ばせる必要がない)のは、無理もないことである。
【関連(?)書籍】
女性に選ばれるマーケティングの法則 リサ・ジョンソン アンドレア・ラーニド 飯岡 美紀 ダイヤモンド社 2005-07-08 by G-Tools | バリュー消費―「欲ばりな消費集団」の行動原理 田村 正紀 日本経済新聞社 2006-01 by G-Tools | ||
>「生活者は消費者であると同時に供給者である」という前提自体が単に間違っている
働いたら負けという事実だけでなく、
勝ちつづけている人と負けつづけている人がいるということですね。
それを「勝ち組・負け組」とか「希望格差社会」とか「下流社会」ってのが説明していると。
もちろん、仕事は単にカネを稼ぐものではなく、社会との繋がり感を得たり、居場所を見つけたり、承認を得たりする効果がありますから、単純な交換ではないんですけどね。ただ再挑戦ができにくい社会では、その意味ですらいわゆる「勝ち」「負け」が固定化しやすいのは避けられません。
Posted by: sociologic : 2006年05月19日 01:46はじめまして。突然のコメント。失礼しました。
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