Columns: Society
「良い格差・悪い格差」を超えて
Society近年、格差の拡大や格差社会化が語られる中で、「格差には良い格差と悪い格差がある」といった話がしばしば議論になることがある。つまり、格差が固定化している社会、既得権が強く、健全な競争が行われない、機会不平等な社会が悪い格差(社会)であり、挑戦の機会が誰にも開かれており、努力した人が報われる社会が良い格差(社会)である、という訳である。
しかし、こうした議論は、課題設定が間違っており、結論を誤った方向に導く可能性があるのではないだろうか。というのも、既得権が強く格差が固定化したピュアな「悪い格差」社会であればありえるが、逆にピュアな「良い格差」社会、というのは非常に考えにくいからである。2世議員が闊歩している政治家からしてもそうだが、都市部を中心に私立学校志向が強くなっており、学校教育にカネがかかるために、教育を通じた格差の再生産(=固定化)が進んでいるといった指摘があったり、人脈や教養など、家庭が保有する社会資本の差が社会における成功に有意な差を生み出しているという話もある。「良い格差」社会ですら、ある程度は「悪い格差」的な要素が含まれることを避けることは難しい。もちろん、リスクテイクして挑戦し、成功した人がリターンを得られるようにする中で、結果的に格差が生まれることは積極的に進めるにしても、「格差社会はいいことだ」というのは順番が逆である。
「良い格差」「悪い格差」議論は、結果的にしばしば、開かれた自由競争の社会→既得権の破壊→規制緩和、ということになるだろうが、マスメディアのような本当に見直されるべき一部の既得権・規制は残り、多くの一般市民の労働条件を悪化させる方向に繋がる可能性の方が高い。むしろ格差問題についての議論は、「良い格差」「悪い格差」よりも以下の2つのポイント、
i)日本は将来に向けて成長路線を目指すべきか
ii)絶対的な貧困にどう対応するか(どのような再配分モデルを目指すか)
といった、日本の将来の社会のグランドデザインとして、どういった社会を目指すのか、といったことを中心に深めることが必要と考える。
i)については、人口構造の高齢化や人口減少社会の中で、あくまでも(資本)生産性向上を狙えば、様々な軋みや歪みが生まれ、労働時間の長時間化といった労働強化に繋がるだけだから、緩やかに経済規模を縮小していくのが妥当だという考え方もあるだろう。また、成長路線は、通常、経済格差を更に広げることにもなる。モノがない時代から次々とモノが買えるようになっていく高度経済成長期とはもはや異なるのだから、現代では富める者が更に富むことでは、単に富める者内での回転が良くなるだけで、下層にまで富が降りてくることにはならない。
ただ、個人的には成長路線の見直しには2つの理由で否定的である。1つは、エネルギーや食料といった、生存欲求レベルの資源が日本においては不足しており、輸入に頼っているが、中国やインドといった圧倒的に人口規模が違う国が経済成長をしていく中で、こうした資源の獲得競争に巻き込まれることは避けられず、それに対して、できる限り競争力を維持していくことが必要と考えられるからである。また、2つ目の理由として、対外的な経済力を持ち外国の企業との強いビジネス関係や経済支援能力を保っていくこと自体が、テロは別として戦争に対する抑止力や、政治的な発言力として機能し、日本の平和に寄与すると考えるためである。
もっとも、圧倒的な中国やインドの成長の前では多少の成長は誤差であっていずれにしろ時間の問題であり、経済的競争力を前提としない形での持続可能な日本社会の姿を描いて行くべきだという考え方もあるだろう。
ii)については、これまでにも触れてきているところでもあるが、「良い貧困」「悪い貧困」を分ける意味がないことから分かるように、「絶対的な貧困」に何も対策を打たない、というのはもはや社会保障の放棄でしかない。そして、今、この絶対的な貧困が問題になりつつある。ミドルからアッパーミドルクラスを想定読者としているであろう東洋経済の2/24号の総力特集「貧困の罠」が先月話題になったが、これはこうしたアッパーミドル層ですら貧困層に陥るリスクが高まりつつある社会を示している。すでに7年近く前に、「Ethico-Economics 英エコノミスト誌・米国の貧困問題」といった記事が出ているが、今の日本をぴたりと予想している。企業や家族、地域社会の福祉的機能がワークし、格差が小さい時代に構築された、セーフティネットの仕組みは、企業、家族、地域社会の福祉機能が低下し、個人を単位とした現代社会においては必ずしもそぐわなくなってきているし、社会保障費の増大という意味でも限界があるため、再構築を検討すべき時期に来ている。
考えられる1つは「収入が低くても生きやすい」社会を目指す、ということだろう。最低限の生活のためのコストが高い社会では、社会保障に頼らざるを得ない人が増大し、セーフティネットも高いレベルで必要となるため、トータルの社会保障費が爆発的に大きくなり、社会保障の破綻に繋がる。最低限の生活のためのコストをいかに下げるような支援をしていくか、ということを考える必要がある。
この辺りの議論では「世界一受けたい授業と格差社会」が良く、ほとんど付け加える必要がない。「最低限の生活」で必要なのは、衣食住に加え、育児、教育、医療、介護ということになってくるだろうか。マズローであれば安全欲求+社会的欲求の水準である(ネットカフェ難民と呼ばれる人たちに顕著なように、社会との繋がりが失われることではセーフティネットの網からも漏れることになるため、企業や家族に依らない繋がりの仕組みの再構築も求められる)。
このうち、「食」は時間単金とマクドナルドの比率の比較からも分かるように、日本はかなり低い水準にあるし、「衣」についても、ブランドにこだわらずユニクロや無印でOKなのであれば、十分リーズナブルである。しかし、その他の「住」「育児」「教育」のコストは日本では高い水準にあるし、「医療」「介護」についても、継続的に保険料が払えない中では、病気や要介護状態になることが大きなリスクとなり、安心して生活できる社会には程遠い。こうした商品・サービスの利用に対して重点的な支援が必要だろう。汎用的な生活保護よりも、利用用途を明確化するためのバウチャーチケット化や、サービス提供側の支援を強化することで教育など商品・サービス価格を押さえることも1つだろうし、消費税の比率について贅沢品や嗜好品と生活必需品・サービスの濃淡をつけて行くことも効果が期待できる。これらの原資としては、スタート地点の機会格差を軽減する意味でも、相続税の累進性を高めることも考えられる。
これらのi)経済成長に対する考え方、ii)再配分に対する考え方を2軸にマッピングすると下図のようになる。就職氷河期世代が放置され、ワーキングプアの増加が社会問題化する中、もはや、「良い格差・悪い格差」の言葉遊びをしている余裕はないはずだ。
図1 日本社会のグランドデザイン