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Columns: Society

コンビニが支える「安心社会」

Society

タイトルの「コンビニ」は現代の(フランチャイズなりチェーンなりで)全国展開している企業の象徴としてのものであり、特にコンビニだけを指している訳ではない。「安心社会」というのは「安心社会から信頼社会へ」(山岸俊男)の意味においてである、と言えば、過去に読まれた方であれば、恐らくこれからの話がすぐにお分かり頂けるものと思う。

「安心社会から信頼社会へ」では、見ず知らずの他人を信頼するかどうかという点において、米国に対して日本では信頼する傾向が低いことを繰り返し実証検証の中で示されており、流動性が高まり「安心社会」の崩壊にある中で、日本が「信頼社会」の実現に向けて、不確実性の中で個人を信頼していくことの可能性を問いかけている。しかし、実際には今なおそういう方向に向かっている訳では必ずしもない。そうした中で、誰にでも同じサービスを提供する企業は、日本の「安心社会」を支える上で意味があるのではないか、ということである(*1)。

(*1)厳密には、「安心社会から信頼社会へ」では、そもそも「能力に対する信頼」と「意思に対する信頼」を区別して、かつ後者についてのみ議論しており、企業が提供する商品・サービスは、前者に該当するとも言える。ただ、後述する偽装問題のように、不正をしても自分が利益を上げるかどうか、というのは、経営者を含むある種「法(の上での)人」としての意思である、とも言えるのではないか。

以前、

[society] はてなブックマーク > コンビニ問題 - 狂童日報

を読んで、「匿名の安心感」という指摘が非常に面白かった。サービスビジネスにおけるおもてなしとして、リッツカールトンのような高級ホテルが、個人を認識し個人に合わせた体験を提供することで、価値を高めているのに対し、コンビニでは見知った顔でも(こちらから求めない限り基本的には)知らない人と同じように対応してくれる。だがそこにはある種の安心感があるという訳だ。(逆に、個人を認識して対応されると嫌という人も多いのではないか。)

一般に、大企業は「概ね」生活者に対して悪いことはしないことが期待される。特に上場している企業においては、株主に対する情報公開が求められるし、コンプライアンスやCSR(企業の社会的責任)への関心も高い。「偽」の一字に代表されるように、偽装が2007年に一種の「ブーム」にもなったが、メディアが溜飲を下げるネタとして「悪者」を探して跋扈している中では、ひとたび不正がバレれば、ビジネス上致命的な状況に追い込まれることが分かっているから、企業は多少の利益を犠牲にしても、不正に気をつけるようになってきている。

もともと、人における「安心社会」は、お互い皆顔見知りでムラ社会の固定的な関係の中で、よそさまを裏切るような行動を取れば、村八分になってしまうがために、悪いことはしない、という理屈だが、不祥事やスキャンダルを好んで「商品」にしている大手メディアが、不祥事を起こした企業を寄ってたかって「村八分」にしてしまうため、同じような状況が起きているのである(そして、ローカルな企業の不祥事では「商品価値」がないため、何かあっても大きく取り上げられにくい)。

また、もし何かトラブルがあっても、訴訟相手として、個人では(裁判上はともかく)実質的に余り金銭的補償を勝ち取ることは期待できないが、企業相手であれば可能性はある。もちろん、今でも悪質な訪問販売などにダマされる人は少なくないし、消費者保護への意識はより一層高まりつつあるが、金銭的に大きな不自由がなく、ある程度モノを見極められる人にとっては、むしろ消費者の方が有利な時代にさえ思える(*2)。

(*2)企業間のビジネスにおいても、日本では個人より企業を信用する傾向が強い。実際、中小企業ではそうでもないかもしれないが、大企業が個人に仕事を発注するのはかなり難しい。よほど業界の有名人であれば「バイネーム」で個人を指名して発注することもあるが、無名の場合にはほとんど可能性がない。もし想定した実力がなかったり、「蒸発」されても替えが効くことを企業は求めるからだ。個人を信頼し、リスクをとって発注する代わりに、高くて効率は悪いし、企業名で実際に提供される価値がプアであっても、企業が提供する「安心感」を求めるのである。それが個人にも広がっているとも考えられるだろうか。

社会と人間関係の流動性の高まりに対して、コミュニケーションの負担を下げる仕組みが以前に取り上げた「空気」であり「お笑い」であった訳だが、安定的な地域社会もなく、個人的な信頼関係も築きにくい時代にあって、コンビニを始めとする大企業が提供するモノやサービスが孤立化する個人を支える役割を果たしている。個人商店が大手のコンビニチェーンやスーパーマーケットに飲み込まれていく、生活者自身が地域の店よりもそういった大企業をむしろ選択してしまう背景には、こうした「安心を求める」状況もあるのだろう(*3)。

(*3)経営している家族を良く知らない家族経営の無名コンビニと、セブンイレブンが隣同士に並んでいたらどちらに入るか、ということを考えれば。

ただ、安心を求める余りに、企業が不祥事を起こすたびに国による規制強化を求めるのはイマイチ筋が悪い。企業と生活者の情報の非対称性を解消する、情報開示の部分だけは、しっかりと監視していく必要があるが、建築業界の「官製不況」のように、規制を強化すればビジネスのオーバーヘッドが大きくなるばかりだし、利権の温床にもなる。それに、いつも国が何とかすべきだと言うだけでは、商品を選ぶ目も磨かれない。「信頼社会」で言えば、ちょうど、不確実性の中で、ある人が信頼できるかどうかを見抜く力に当たるだろう。生活者がモノやサービスを見る目を磨き、商品の購買(または不買)や、あるいは株式などの投資といった「選択」の力を通じて、市場によるガバナンスを構築していくことを合わせて目指すべきなのだと思う。

4121014790安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)
山岸 俊男
中央公論新社 1999-06

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Posted: 2008年02月17日 00:00 このエントリーをはてなブックマークに追加
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コメント

anomyは個人的にやや批判的な見解だが、

匿名掲示板の誹謗中傷書き込みやブログの炎上に傷ついたり逆上したりせずにそこから何かを学べる強い精神の持ち主なら、あなたの言う「市場によるガバナンス」も支持できるのでしょうね。

私には出来そうにありません。

Posted by: anomy : 2008年02月19日 00:39

anomyさん、どうも。

「匿名掲示板の誹謗中傷書き込みやブログの炎上」と今回のエントリとの関係がイマイチピンと来ていません。企業のリスクマネジメントとして、という意味ででしょうか。個人に期待されていることはあくまでも購入という行動によって示すことで、誹謗中傷書き込みや炎上に繋がるようには思えませんが。

「匿名の安心感」という着眼点の面白さを、流動化の中での「安心社会から信頼社会」に繋げてみたのが今回のエントリですが、「消費者庁」という何だか筋の悪そうな話が出ていた中で、情報開示による非対称性の緩和によって、消費者の目の力を生かす方がいいんじゃないのか、という落ちを持ってきたので、まとまりがなくなってしまい、分かりにくくなっているかもしれません。

Posted by: socioarc : 2008年03月03日 07:55
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