Back Numbers | Home

Columns: Society

専門家の「コミュ力」

Society

政治、社会、経済、科学など、あらゆる領域において、研究が深まり、細分化し、専門化が進む中で、普通の人が専門でない領域について理解することは難しくなる一方である。タイトルが全てであるが、そのような中では専門家の「コミュ力」がますます求められているように思われる。

ここでいう「コミュ力」とは、共感性のコミュニケーションや雑談力ではなく、あくまでも受け手にアクションを起こす、ビジネスコミュニケーションに近い。つまり、専門家が非専門家に

1)分かりやすく噛み砕いて説明し
2)キーパーソンの意思決定を促し
3)必要であれば政治力も駆使する

のは、専門家の仕事である、ということである(もちろん、受け手の性格によって、意思決定を引き出すために、共感に訴えることが重要な場合は多々ある)。

ITの専門家であれば、IT戦略やアーキテクチャの妥当性をコミュニケーションによって納得して貰い、意思決定を促すのはコンサルタントやアーキテクト、エンジニアの仕事である(そういう自分が必ずしもできている訳ではないが)。

「分からない」と言われるのは、専門家側のコミュ力の問題である、ということである。動かない小奇麗なプレゼンテーションはプログラマには不評だが、内容があることは前提として、聞き手の理解を深め、ニーズを聞き出し、意思決定を促す上では一定の意味もあるのだと思う。もちろん、動くものをさっと見せることで意思決定を引き出せるならその方がいい。

では、非専門家には何も役割はないか。あるとすれば、必要な時には専門家の意見に耳を傾け、理解しようという努力、少なくとも意思を持つことだろうか。どうも、あえて無知を装って理解しないフリをしておき、「よろしくやっておいて」と専門家に丸投げし、問題が起きたら一転して厳しく責める、という行動パターンが、むしろ得になってしまうような状況があるように思われる。

いずれにせよ、説得する責任は、専門家側にあり、非専門家の無理解を嘆いている場合ではない。

この景気悪化によって本格的なデフレのリスクが再燃してきている中で、経済学者らからは、日銀の無策に対する諦念とも嘲笑とも思われる嘆きが出てくる場面がしばしば散見されるが、これも経済学者という専門家に期待される役割としては同じであろう。例えば、「金融の量的緩和はどの経路で経済を改善したのか」(原田 泰・増島 稔)という研究を、普通の生活者が理解するのは無理があり(自分自身、全く頭に入ってこない)、これはこれで専門家向けには有用だが、学術的な研究を超えて有効な政策を引き出すためには、より分かりやすい説明も、期待される。もっとも、国の経済政策は、企業よりもはるかに利害関係が複雑であり、キーパーソンが多過ぎる、ということはあるが。

Posted: 2008年12月09日 00:00 このエントリーをはてなブックマークに追加
Amazon Search(関連しているかもしれない商品)
コメント
コメントする









名前、アドレスをブラウザのcookieに登録しますか?