例えばの話なんですが。 自分の身近な人が亡くなったときに骨を拾う。 異常に熱い部屋、熱気の元は骨なんだけれども、その頭蓋骨がさっきまで肉を纏っていて自分の良く知っている顔だったんだと。 そう思うと確かにその頭蓋骨には面影が在って、でもその面影のある頭蓋骨を職員の人は箱に入れるためにバキッと割ったりするんだよね。 まあここら辺の作業は火葬場によって温度が違うためか粉々になってしまう骨も見てきたけど。 場所によっては温度が低いためか完全な形で残っているものを壊す。 それから発想の逆転が起きたのか誰の顔を見ても骸骨が中に内包されていて、それが見える錯覚に陥る事が在った。 身近な人の顔が骸骨に見えるたびにそれが死の象徴みたいで気分が沈んだんだけれども、その影が一番濃く見えたのは、病気が治った次の日の朝に顔を洗っている時に見た自分の顔で、別にショックでもなければ悲しくも無かったけれど、ああ、まあ当然自分もいつかは死ぬんだよなと、そんな事を。
まあ。今の世の健康ブームや色々な宗教迷信に言われている、何々をしたら死ぬと言うある種の予言なんかははっきり言ってとてもしゃらくせえ訳で、そんな予言俺だって百や二百でも作れますよと。 例えばトンカツにレモン汁をかけると死ぬとか。 それがいつ死ぬかは解らないけどいつかは死にますよと。どうだ! みたいな感じで。
自分には何も無い状況と言うのが想像できないから、もしかすると何らかの状態で死後の世界というのが存在するのかもしれない。 でも、少なくとも現在に在るだけで精一杯な今を生きている自分にとっては、過去現在の哲学者のように死後の世界のことを考える必要も無いし、そんなことを考えるほど自分は誠実でもない。
だから、願わくば今この生涯の中に秋の終わりのような真の安らぎの時間があることを切に望む。 最近は、こんな事ばっかり思ってしまいます。
ああ、風邪引いた、ノロちゃんじゃあ無いんですけどね。うー喉が痛い。
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