宥勝寺

西光山無量壽院中道坊

本尊 不動明王

建仁年間の創立と伝う、開基は有荘氏(後に本庄と改む)也。初め有道宿禰武蔵守惟行五世の孫、児玉党旗頭有荘太郎家長嫡子小太郎頼家、寿永3年2月一ノ谷に於て戦死せしかば、其族之が菩提を弔はんが為め、法印良運を請し当院を建立し有荘寺と号す。開山良運建仁2年7月5日遷化、頼家の族妙清禅尼は文永2乙丑年4月19日卒す(是等の本庄氏の古碑今尚境内に存す)是より先き、有道惟行沙門空海巡化の地、薊山に一寺を造立し、阿弥陀如来を安置し西光寺と号す、今本村内に弘法谷[ヤツ]、弘法井戸と称する所あり。後ち延元2年12月16日、新田、足利両雄の合戦に際し、兵火に罹り堂塔煙滅し、佛体のみ僅かに免かれしを寺址に假堂を営み之を安ず、降て天文6年、北條、上杉戦乱の際寺主退転し、爾来無住にて益々頽廃せしを、天文24年僧頼暁なる者、霊場の滅盡せんことを患い、西光有荘の両寺を合併し一寺を建立し西光山宥勝寺無量壽院と号し、地方有数の巨刹となり、数十個の末寺を有するに至る。頼暁永禄4年辛酉2月5日示化、数世の後良辨の時、即ち慶安元年8月24日、徳川家より先規に任せ寺領10石の御朱印を附せられ、寛文13年光祐代に梵鐘を新鋳し、又元禄16年3月、英珊再鋳し、寛永3年3月5日、良敞代に御室御所直末に編入せられ、教化遠近に著はる。寛政中火災に罹り殿堂僧房烏有に帰す(佛体御朱印宝物わづかに免れたり)爾後50年を経過し、嘉永元年2月宥應代、本堂を再建す、現今の建物是れなり。境内1536坪。因みに、本尊不動尊は興教大師の作と伝へ、弘法大師正筆と称する心経一巻、其他二三の寺宝を伝承せり。

児玉三十三霊場の19番、関東八十八箇所の86番です。

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