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欲求データベース説(後編)

Society

欲求データベース説(前編)では、マズローの欲求5段階説に代わる欲求を説明するモデルとして、欲求データベース説を提案した。後編では、この欲求データベース説を掘り下げながら、何故こちらの方が上手く説明しやすい(時代になった)のかを考えることにしよう。

そのためには、まず最初に、もう1度マズローの欲求5段階説に立ち戻る必要がある。欲求データベース説(前編)に掲載したように、欲求5段階説では、5段階の欲求が通常下から上に行くに従って細くなる三角形として描かれる。単に5段階、ということだけであれば、正方形なり長方形なりで、下から上まで同じ幅であってもいいはずだが、わざわざ三角形で描かれるのには理由があり、上の段階の欲求に行くに従って、その欲求を満たされる人が少なくなるからであると考えられる。生理的欲求よりも安全・安定の欲求の方が、それよりも所属・愛情欲求や自我・尊厳の欲求の方が、満たされている人は少なく、自己実現欲求が満たされる人は最も少ないということである。

その一方で、現代日本においては、所属・愛情欲求や自我・尊厳の欲求よりも「自己実現」が非常に重視されている印象がある。人々の所属・愛情欲求や自我・尊厳の欲求がもう十分に満たされているためだろうか。いや、そうではあるまい。ではこれは一体何故なのか。

実は、これこそが欲求5段階説の破綻と、欲求データベース説登場の鍵を握っている。つまり、「自己実現」は、「成熟」「飽食」「個人志向」「グローバル競争」「階層化」といった、loveless zeroではすでにお馴染みな一連のキーワードを抱える現代にとって、極めて都合の良い魔法になり得るということである。

例えば、企業経営や組織論において、「モチベーション論」がますます活発である。かつて右肩上がりの時代には、新しい組織を起こしながらポスト(役職)の配分が可能だったため、賃金を上げる代わりに、ポストをちらつかせることで従業員の意欲を引き出していた。しかし、「成熟」した企業では、従業員に対してポストの絶対数が足りないし、そもそも終身雇用が崩壊している。かと言って、人件費は抑制したいため、カネでやる気を起こすこともできない。いやそれどころか賃金格差の拡大により、大半の従業員にとってカネは下がる一方である。そんな「カネ」も「ポスト」も出したくない経営者が着目したのが「自己実現」の妙薬であり、何とかして「カネ」「ポスト」なしでモチベーションを上げようとやっきになっているのが現在の経営環境と言える。

一般社会においても、第3段階の所属・愛情欲求や第4段階の自我・尊厳の欲求というのは原則として他者の存在、そして他者との個人的で親密な精神的、身体的、社会的関わりなくしては満たすことができない。しかし、「個人志向」の現代では、「自分へのご褒美」消費に見られるように、自分を重視する傾向が強くなるため、他者の「所属・愛情欲求」や「自我・尊厳の欲求」を満たしている余裕が少なくなってくる。加えて、「グローバル競争」により、限られた一部の人に愛情や承認が集中する「階層化」が発生しており、所属・愛情欲求や自我・尊厳の欲求を十分に満たせない人はむしろ増加傾向にあるさえと言える。

だからと言って、「成熟」した「飽食」社会では、その下の「生理的欲求」「安全・安定の欲求」はほとんどの場合ほぼ満たされているため、有り余った欲求の持って行き場がない。それゆえここでも、一足飛びに「自己実現」がスポットを浴びることになる。

「自己実現」というものは、実際のところ今ひとつよく分からないものなのだが、マズローがそれを「自己実現」と認識していたかどうかを別にして、資本主義のビジネスと相性が良いことが挙げられる。先に書いたように、所属・愛情欲求や自我・尊厳の欲求が原則として人間との個人的な関係を必要とするのに対して、「自己実現」は例えばある種の趣味の世界のように、必ずしも他者の存在を必要としない場合が少なくない(繰り返すが、マズローはこれを「自己実現」とは認識していなかったかもしれないのだけれども)。グレーなイメージがつきまとう「疑似恋愛」のような第3段階の「所属・愛情欲求」のためのサービスとは異なり、旅行や食事などの「おひとりさま」向けビジネスのように、第5段階の「自己実現欲求」のためのサービスは、「個人志向」の現代において肯定的に捉えられやすいのである(大量生産とマスマーケティングの時代が終わっていることに気をつける必要はある)。

そして、このポストモダンの「自己実現欲求」は優れて多様性に富んでいることがもう1つのポイントである。「グローバル競争」と「階層化」の社会において、競争するためのステージがカネ、仕事、恋愛などのように限定されているのは大量の負け組を生み出し、社会を不安定な状態に落とし入れやすい。ちょうどプロ野球が1リーグか2リーグかでもめているのが状況としては似ているが、かつて「ローカル競争」の時代には、全国にそのローカルでの勝者が生まれていたし、「隣の芝は青い」という時の比較対象となる「隣」は文字通り近所の範囲だった訳だが、これがインターネットで接続された「グローバル競争」の時代となると、全国で一握りの勝者と多数の敗者という構図になり、「隣」の比較対象も全国区になってしまうため、人々の間に不満が溜まりやすくなる(*1)。

(*1)ローカルのみで流通する「地域通貨」というアイデアが近年注目されているのはこの辺と関係があるような気がするが、まだそれほど勉強していないので深入りしない。

また、「結果の不平等」は、努力した人が相応のリターンを得るという点で当然認められるべきだが、その結果、「階層化」の進展に従って、社会階層が世代を超えて再生産されるという「機会の不平等」が拡大しつつあるという指摘もしばしばされている(*2)。このような時代にあって、限定された評価軸、価値観軸しかない競争社会は、将来に希望を持ちにくい、ずいぶんと暗いものになってしまうだろう(*3)。

(*2)例えば、「階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ」(苅谷剛彦,2001)や「不平等社会日本―さよなら総中流」(佐藤俊樹,2000)。
(*3)ちょうど日本の義務教育や高校がそういった状態に陥っているように感じる。

こういった状況に対し、多種多様でフラットな欲求をベースとした「自己実現」を掲げることで、競争するためのステージを(あるいはそもそも競争を望まない人には非競争のステージを含めて)無数に広げることができる。そしてそこでは欲求の「競合」の発生確率が減少し、単純な勝ち負けではなくなるため、人々の不安感・不満感を逃がしやすい(図1)。ビジネスの場面で「競争戦略の基本は、競争しないことである」とされることにも通じる。

欲求データベースと多様化する欲求パターン
図1 欲求データベースと多様化する欲求パターン

ただ、「スローライフ」や「年収300万時代うんぬん」など、新たな「自己実現」のための価値観の提案は、確かに個人が、より良い気分で生きるための指針を提示してくれるが、それと同時に、社会の不安定化を避けるための、ある種の社会的意図が見え隠れしている感覚を受けないでもない。

言い換えれば、価値観軸を多様化させ、もともと第3段階〜第5段階に位置づけられていた欲求をフラットに細分化して、「欲求5段階説」から「欲求データベース説」へと転換していくことは、「グローバル競争」と「階層化」の社会が自らをサステナブル(持続可能)なものへと適応させるための、自衛的反応ということができそうである。特に従来「交換価値」が高く、人々の関心の集めていたカネと恋愛を中心に、「スラム化」とでも言うべき深刻な格差が出現しつつある状況では、尚更この自律的適応効果は重要である。

もちろん、こんな風にシニカルに構えて見せるよりも、自身の欲求パターンを見つけ、自分の能力・性質に適した価値観を選択していく方がこころの平静も得られやすく建設的だし、「最大多数の最低限幸福」ということを問題意識として持っているloveless zeroとしても、望ましい生き方であるのは間違いない。ただ、その「選択」が、自分自身による主体的な「自己実現」のものなのか、安定化を指向する社会によってインストールされたものなのかは、もはや区別がつかないのである。

Posted: 2004年08月13日 00:25 このエントリーをはてなブックマークに追加
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コメント

 後半拝見しました。このようなお話をlovelesszeroさんクラスのアクセス数で
お書きになったことを、まずは驚いています。読む人を選びそうな文章ですし、
そうでなくても文末でshouldを提言できるようなテーマでもないわけで。
 このテキスト内で書かれている「自己実現」の意味では、他者の存在を必要と
しないと書かれていますが、だからこそこのテキスト内における「自己実現」は
今の世の中の状況では社会から引き合いがありそうな感じがしますた。
「グローバル競争「階層化」という、他者の承認や(貨幣の如き)相対的で客観的な
承認・肯定・評価を一部の人間が寡占しがちな状況では、そのような条件に
依らずに最大多数の最低限幸福を提供できるような仕組みは確かに必要そうですね。
最大多数の最低限幸福なるものは、過去、パンとサーカスだったり宗教だったり
電気洗濯機だったりしたんでしょうけど、パンとサーカスや電気洗濯機は誰でも
持ってしまってますし、宗教も欲求不満の解消に寄与する割合が減ってきています
し(一方で、このテキスト内の「自己実現」を様々な方法論で提供するセクトが
跋扈しているように見えますねぇ...)。
 仰るように、やはり自己実現というシュプレヒコールのもとに「不幸な市民を
満足させる」新しい方法論が展開されてくるのは自然かつ必要そうですね。また
単にそういう不満解消という意味だけではなく新しい価値観や文化や視点を生み
出す上でも有用そうだなとも思います。ですが、文末に秋風さんがそれとなく
指摘してる通り、新しい自己実現ってやつには落とし穴も有りそうですね。
スローライフなり自分の生き方なりがコンビニエンスストアの雑誌で見いだした
価値観や自己実現に過ぎない事を看破してしまった時 、しらけてしまいそうで。
勿論既存のメディアをリファレンスせずに自分の新しい境地を見いだした人は
そんな事ないのかもしれませんが、そもそもメディアや他人からのインストール
なのか自分で見いだしたのかも不確かなこの世界なわけで、このテキストで
書かれている所の「自己実現」は随分と不安定なもののような気がします。
特に、(とにかく誰であれ)他人からの承認や評価や愛(うっ!愛!愛ってなんだ!)が
得られない「自己実現」をどう安定させるのか、非常に難しい問題だな、と
思います。多分、現代の社会の中で生きる限り、自己実現の境地に安んじることは
とても難しい事なのでしょうね、隠遁生活を送らない限り(スローライフは、この
点でまさに隠遁生活に近いので自己実現の魔法が解けにくくていい感じですね)。

 このテキストで語られている自己実現は、なんだか脆くて、外からインストール
されやすくしかも魔法が解けやすい代物のようにも見えます。が、天井知らずの
欲求は不幸に向かうショートカットなのも事実なので、この手の満足を司る適応
技術はやっぱり必要な気がします、一人一人に何らかの形で。多分、他者との
競合に競り勝つ技術の向上と平行して満足を司る「自己実現」の技術を(インス
トールでもこの際構わないから)身につけることが(個人にとっての)総合的な
適応を向上させるベストなのではないかと愚考しました(社会にとってはどーだか
知りませんけどね)。

PS:しかし、欲求に関する情報が目の前にパンチラをちらつかせていて困りますね。
パンチラを見るのがいけないわけではないでしょうけど、あまりに欲望信号が
多いとどこまで自分が欲しがっているのかさえわからなくなってしまいます。
蟻を動かすホルモンのように氾濫する欲求信号に、私などはまずフィルタを
かけなければならないようです…。

 興味深いテキスト、ありがとうございました。

Posted by: シロクマ : 2004年08月16日 19:59

お返事を考えていたら大変遅くなってしまいました。
私としてはシロクマさんが驚かれたことにたいして驚いてしまったりしていた訳ですが。
むしろこの手のシニシズム満載な文章こそ持ち味といいますか。ホント嫌な持ち味ですね。

影響力、ということでは余りないと思うんですけどね。
例えばSimpleさんところは8000人/日の人が読んでいますが、loveless zeroは
1000ヒット/日で、そのうちテキストを読んでいる人は200-400人ぐらい。
数十分の1です。人の選び方にしてもそれほどはっきりとした仮想敵を置いている
訳ではないと思いますし。

さて、今回の一番のポイントは、もちろん最後にありまして、
仰ることと重なりますが、コンビニエントな「自分らしさ」とか「個性」への疑問ですね。
マズローの第4段階以下が十分満たされている人であれば問題ないんですが、
そうではないのにただ「自己実現」に傾斜して、競争回避的な思考/行動を取るのは
どうか、という問題意識です。

ただ確かに宗教なき時代に、こころの平静を得るには何らかの「物語」が
必要だとは思いますので、結局はバランスの問題という平凡な結論に落ち着きそうな
気がしますが。

Posted by: 秋風 : 2004年08月27日 01:40

お世話になります。とても良い記事ですね。
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Posted by: MONCLER ダウン : 2013年01月18日 00:15
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