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格差ゲーム

Book | Society
00年代の格差ゲーム
佐藤 俊樹

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不平等社会日本―さよなら総中流」の続編で、単に格差社会ということではなく、格差「ゲーム」となっていることがポイントだろう。そこに何らかのプレイ(演技)が含まれているのである。

具体的には、従来「総中流社会」で繰り広げられて来た「平等ゲーム」と対比になっており、かつて、実態としては否定しがたい格差があったにも関わらず、あたかも皆が「中の下」階層にいるかのように振る舞っていたが、上級管理職や上級公務員といった「中の上」階層に属する人が、実態としてはそれほど変わっていないにも関わらず、もはや「中の下」の奴らとは一緒にするな、という格差をあからさまに表明するふるまいをし出した、ということらしい。マスコミも含めてある面で、格差を肯定する風潮が強まって来ていること、また、格差が世代を超えて再生産される中で、将来に対して格差が解消するような明るい展望を抱けないため、実態以上に「格差感覚」を抱きやすい時代になっているのだと言う。

また、今の日本のように「結果の平等」ではなく、「機会の平等」を掲げる社会では、「弱者」がいなくなることにも触れられる。

結果の平等と機会の平等では"弱者"の意味が大きくちがってくる。結果の平等のもとでは、"弱者"というのは不当な目にあっている人になる。持てる者と持たざる者の極端な格差、つまり極端な強い弱いの差自体が悪である以上、弱い立場の人間は常に被害者である。機会の平等の下では、そうはならない。機会の平等における"弱者"はゲームにまともに参加できない人にすぎない。あえて嫌な言い方をつかえば、たんなる可哀想な人、になるのだ。

「結果の平等」を掲げる社会では、結果を得られない人は「弱者」を主張できるが、「機会の平等」を掲げる社会で機会は同じように開かれているのだから、結果を得られないことは単なる「自己責任」の問題とされるのだろう。その上で「弱者」を主張することは、自らを「二級市民」であると認めてしまうことになるからだと指摘されている。

この「自己責任」は、最近の日本人が大好きな言葉だが、もっぱら(自分と関係ない)他人に対して使うことが多いように思われる。この辺についても、自分の周りについては非常に関心が強いが、その外側については極端に無関心になりつつある、という「小社会」化として言及される。

タイトルからすると単に「格差」だけを扱っているように思えるが、主に「不平等社会日本」以降に書かれた文章を集めた本であるため、政治、社会、コミュニケーション、メディアなど話題が多岐に渡っており、「格差」関係は50%というところ。若干発散している感はあるものの、「不平等社会日本」同様面白い。

Posted: 2004年09月04日 12:42 このエントリーをはてなブックマークに追加
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