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ロングテールと総幸福量最大社会
Business | Society近年、Amazon.comの成功によって、ロングテールということが広く語られるようになっている。ロングテールをもし聞かれた事がなければWikipediaなどを参照して頂きたいが、シンプルに言えばインターネットの普及とITコストの低下によって今まで20-80の法則(べき乗則/パレートの法則)で無視されて来た80%でビジネスが成り立つようになる(かも)という話である。
「優しい経済学」 vs. long tailはこのロングテールの概念を用いて、富裕層に集中したビジネスより、広く貧困層(*1)に製品やサービスを提供することが、社会だけでなく企業にとってプラスになることを指摘している。関連していると思われる、「ネクスト・マーケット 『貧困層』を『顧客』に変える次世代ビジネス戦略」も近いうち読んでみたいところである。
(*1)「富裕層」「貧困層」の定義は、人によってブレがあるだろうが、ここでは「富裕層=不労所得で生活できる人(資産階級)+勤労所得で年収1500万程度以上の人(新富裕層/「中の上」層)。「貧困層=年収1500万未満の「中の中」層以下」を想定している。
基本的に、こういった考え方には賛成したいものの、とはいえ、日本に限定すればジニ係数の増大に示されるように、中流階層が崩壊し経済格差が拡大しつつある中、所詮母集団が1億人からの規模なので、社会にとってはともかく、企業の利益面だけから見た場合、必ずしもプラスになるか疑問は残る。経済格差が大きくなり、年収200万、300万の世帯が増え、合わせて消費税のような「平等性の高い」税制がメインになっていければ、可処分所得は極限まで小さくなり、生活必需品を除けば、どれだけ広く貧困層の購買力を足し込んでも、それなりの人数が見込める富裕層の購買力にかなわない事態になりうる。
いくらCSRの重要性が語られようとも、株主価値を向上させ続ける必要のある企業にとっては、慈善事業はできない。「ビンボくさい」と指摘されつつも、ワイドショーライクな「下流社会」で「『上』に対して物を売るノウハウが必要になる」と書かれたり、富裕層マーケティングが注目されるのもそういった背景があるのだろう。富裕層のミドル・マスマーケットはもちろん貧困層のマスマーケットより小さいが、遥かに高額の商品・サービスを購入してくれるのでビジネスが成り立つ、という逆側のある種の「ロングテール」になる訳である(図1)。

図1 収入/資産の分布と「ロングテール」
ところで、当サイトが度々言及している総幸福量最大社会の考え方からすると、経済格差の拡大はどのような意味を持つのだろうか。資本主義社会である現代日本においては、収入と結婚率の相関性が指摘されたり、収入や資産だけで「セレブ」待遇されるなど、経済的な要素が単なる購買行動を超えて幸福量に大きな影響を与えていることは否定できない。
もし仮に、経済的な要素のみが幸福量を決めているとすると、経済格差の拡大が総幸福量を下げる事になるのは、直感的に想像がつく。一般的に、カネは、多く所有すればするほど同じだけのカネの感覚的な価値が下がることが考えられるからである。年収100万から1100万になることの影響は非常に大きいが、年収1億から1億1000万になってもさほど影響がなくても不思議ではない。経済感覚が対数的である、という指摘の通りである(*2)。
(*2)より科学的には、例えば感覚受容などを参照。
例えば、ごく単純な仮定に基づく思考実験として幸福が収入/(100万円)の対数で表されるとし、総収入が5人で1億の社会を考えると、
i)5人の収入が9200万,200万,200万,200万,200万の場合
総幸福量=log92+4log2=3.16
ii)5人の収入が5800万,1800万,800万,800万,800万の場合
総幸福量=log58+log18+3log8=5.72
iii)5人の収入が2000万均一の場合
総幸福量=5log20=6.50
となり、確かに経済格差が小さい方が総幸福量が大きくなることが確認される(*3)。
(*3)総収入が同じであれば、全員の収入が等しい時に最大になる。
しかし、実際社会主義は破綻しているし、結果悪平等な社会では優秀な人のモチベーションが上がらず、経済全体が萎んでしまうという説明のもと、北米的な価値観が主流となっている現在では、経済格差の拡大はもはや既定路線である。そうした中で幸福量を増加させるためには、いくら貧しくとも経済的な要素以外に幸福を見い出せる社会にしていくことが必要となる。「専業主婦」「子ども」「住宅ローン」を3大不良資産とし、筋肉質な(=質素な)生活と、趣味の世界やポジティブなラテン系生き方を訴える森永卓郎氏や、「萌え」による恋愛市場の「ローエンド破壊」を断行する本田透氏、また「スローライフ」(およびその他「スロー*」)や「自分らしさ」といった言葉は、決して単なるマーケティング用語に留まるものではなく、経済格差社会を安定させ、マイクロテロやサイレントテロのような社会不安を押さえ込むためにも、社会の自衛機能として出てくるべくして出てきたと言って良いのではないか(*4)。
(*4)宗教とか神とかがワークすれば、一番いいのだろうが。
実はすでにブータンでは、1972年「国民総幸福量(GNH)」という指標が提案されており、国を挙げて「物質的な豊かさと精神的な豊かさの両立」に取り組んでいるという。商品やサービスを売り込む企業から支払われる広告モデルに依存した従来のマスコミに「啓蒙」されている私たち日本人が、経済的価値に大きく依存した価値観を新たにしていくことは容易ではないだろうが、そんな中で、ブログやSNSのようなロングテールなバイラル・メディアやコミュニティは、もしかしたら、そうした古くて新しい視点を、私たちにもたらし根付かせてくれる一助となるのかもしれない。
関連: [society] 情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる
関連: [business] いかにしてロングテールをつかまえるか (pdf)
関連: [society] ブータンと国民総幸福量(GNH)に関する東京シンポジウム2005
【関連書籍】
![]() | ネクスト・マーケット 「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略 C.K.プラハラード スカイライト コンサルティング 英治出版 2005-09-01 by G-Tools |
![]() | “新富裕層”マーケティング ポール・ヌーンズ ブライアン・ジョンソン 桜内 篤子 ランダムハウス講談社 2005-05-19 by G-Tools |
![]() | 情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる 公文 俊平 NTT出版 2004-10 by G-Tools |
![]() | 現代ブータンを知るための60章(目次) 平山 修一 明石書店 2005-04 by G-Tools |
うさんくさいコメントになって恐縮なんですが、こんな状況だからこそ、既存の大宗教や神道さんにはがんばってもらいたいなぁと思ったりしています。日本はともかく、海外ではまだまだご活躍のようですし。ですが、既存の大宗教in Japanにはそれなりきにいろいろと問題もあるでしょうし、(カルト性のある宗教を何とかしながら)これから巻き返しをはかるには大変なことでしょうね。この国の文化と宗教に関する流れを考えると仕方ない事ですが、痛いなぁと思ってしまいます。
私個人は、とある平安仏教と鎌倉仏教をつまみ食いさせて頂き、幸福量保存というより極端な不幸回避ツールとして現在も運用中ですが、あまりリソースを割かずに(数年に一度四国に逝くぐらいですか)かなりの効果を挙げてくれてます。ですがこの代物に現在の形で接近出来た事自体が、ものすごく「良縁」があってこその事のように思え、社会的諸格差とこの「良縁」にも、何らかの相関が予感されてなりません。三大宗教さんや神道さん含め、頑張って欲しいけどやっぱり無理なのかなぁ…。
コメントありがとうございます。
そういった「良縁」に恵まれたことはとても幸運なことだと思います。
既得権益に浸かった宗教家からはしばしばカネにならないお客さんは必要とされないことという即物的な面もあるでしょうが、宗教的なものに関心を持てる事自体が何らかの文化資本を素養として要求することという面もありそうですね。
Posted by: 秋風 : 2005年11月04日 00:50>頑張って欲しいけどやっぱり無理なのかなぁ…。
絶対ムリです。断言します。
私もまた縁あってとある鎌倉仏教系の一宗派に「属し」、「得度」し、「加行」を受け「伝法伝戒」を受けた身ではありますが、その私をして断言しましょう。
絶対ムリです。
上田紀行さんという例外主義的な仏教肯定学者もいますが、彼の称える前衛仏教はやはり「例外」にしか過ぎないと思います。
もちろんそのような動きこそ望ましいものではあるのですが、そのような活動はむしろ、「反体制的」であると目されることが多く少なくとも、「伝統的」ではないという理由で否定にさらされるのが実情でしょう。
どこの世界も腐った老人が牛耳っているのです。
鳥インフルエンザとかSARSとかが大流行してそれらが一掃されないと無理です。
また、この件に関してはシロクマさんの論理も信仰に霞んでいるのではと思われます。
オタクを「救済」するための組織を作ることに対して、あれほど鋭くその「腐敗」の可能性を指摘されたのにもかかわらず、同じく「救済」を掲げる組織に対して、甘い「期待」をかけられるのは矛盾以外の何物でもないのではないでしょうか?
あと、「行」という行為においてその信仰を肯定するというのは、一種の「魔境」なのではないかと思いますが、それはあくまで私個人の感想です。



