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As-IsとTo-Be

Society

#3週間ぐらい寝かせてあったエントリですが、良くならなそうなので。

遅まきながら先日手にした「フリーターにとって「自由」とは何か」は、「魂の労働―ネオリベラリズムの権力論」以来の衝撃だった。冷静な現状認識とそれを支える勉強量、異なる属性を持つ他者(正社員、派遣労働者、ニート、ひきこもり、野宿生活者、女性、障害者、第三世界…)への想像力、そして紡がれる魂の叫び。もはやフリーター論を遥かに超えている。まさに「クールヘッド&ウォーム(ホット)ハート」を地でいく著作であり、現時点では「現状分析」に留まるものの、仮に資本主義社会の次の形がありうるとすれば、こうした「現場」からの生の声のみが、その出発地点足り得るのではないかと思った。

さて、ここからいきなりスーパーメタになるのだが、As-IsとTo-Beという言葉がある。通常、企業や政府・自治体のビジネスアーキテクチャや、業務プロセスの現状と理想を描きそのギャップを埋めるための活動を検討することであり、部門ごとのタテワリな部分最適ではなく、全体最適によるあるべき姿を目指していくという、EA(エンタープライズアーキテクチャ)と呼ばれている領域でしばしば使われているものであるが、これらのAs-IsやTo-Beという考え方は社会や個人においても当てはまる。

つまり、As-Isは、あるがまま、現状の社会や個人ということであり、To-Beはあるべき姿、理想の社会や個人ということになる。そして、「As-Is社会」「To-Be社会」「As-Is個人」「To-Be個人」と、その間の変化の方法、のどこに重点を置いて書いているということに着目すると、社会で起きている現象に関しての見解・意見・その他表現は、大体「社会語り系」「自分語り系」の「分析系」2種類と、「社会変革系」「自己変革系」「価値観変革系」の「設計/方法論系」3種類の合計5つ程度に整理ができる。(図1)

As-IsとTo-Be
図1 As-IsとTo-Be(「ゲームのルールを変える」フレームワーク?)

例えば、sociologicは、「社会語り系」に当てはめられそうである。ただ、単なる愚痴に陥らないように価値判断を余りしないスタイルを意識している。

「自己変革系」は、「As-Is社会」をまずはそういうもの(所与の条件)として受け止めて、その社会にどう適応するか、つまり「As-Is個人」から「To-Be個人」へのカイゼンをメインに置くスタイルである。これは自分で主体的に始められるところが現実的で、建設的でもある。自己啓発的なビジネス書は大体全てこのスタンスだと言って良い。ただし、「自己変革系」は偉い人(政府や企業など)などから強制されると、単なる現状社会追認+自己責任化するきらいがある(例えば「人間力」など)。

また、「価値観変革系」は図1では「As-Is個人」でぐるっと回って戻ってきているが、要は何も変わっていない、ということになる。敢えて言えば「As-Is個人」の中で、「As-Is価値観」から「To-Be価値観」への変化があるのだが。

一方、「社会変革系」において、「As-Is社会」を一旦忘れて理想的な「To-Be社会」を描き、「To-Be社会」から見て変革を訴えるのはビジョナリスト、理想家、革命家的であるが(初めの話のEAではその方が望ましいとされているが)、実際の社会は余りにもしがらみが多いため、一般的に「As-Is社会」の延長でどうやったらより良くなるかを考える方がより現実的な改善に繋がりやすい(*1)。当たり前だが、「To-Be社会」だけを主張しても無い物ねだりで何ひとつ状況は変わらない訳で、「誰が」「何を」「いつまでに」「どうする」といったアクションに落ちなければ、一歩を踏み出せない。

(*1)例えば、革命でも起こさない限り「グローバル資本主義」「社会の情報化/金融化/サービス化」といった日本社会の大きな流れはまず変えられない。

また、そもそも全体最適であるところの「To-Be社会」を描くことの困難さについては、電網山賊さんの「部分最適の提言をそのまま全体最適の提言に流用してしまう危険性について」が興味深い。

私たちの世界は、絶対的・最終的な全体最適に到達することは、恐らく永遠にない。「全体最適」として語られる言葉は常に、ある特定の概念的・理論的条件下でのみ成立する部分最適に過ぎない。もし自分の世界記述が絶対的な全体最適そのものに見えたとしたら、まず最初に、その世界記述が成立するための前提条件がどこかに隠れていないかどうかを疑ったほうがいい。

は心に留めておきたい指摘だ。「To-Be社会」を主張するところの論者の置かれたコンテクストはしばしば無視できない。自分が損をする可能性を考慮してなおあるべき姿を主張できる人はなかなかいないため、ポジショントークになりやすいということであり、当然、「To-Be社会」においては、論者がより生きやすくなっている可能性が高いが、その社会で他の人が同じように生きやすくなっているか、どれだけ想像力を広げられているか、慎重に見極める必要がある。その点いおいて、先の「フリーターにとって「自由」とは何か」は衝撃だったのだが、ともすると一般的によく見られる議論では、人によって社会の理想像自体が異なるので、「総論賛成各論反対」どころか「総論反対」となってしまうことになる。

その意味で、通常「社会語り系」→「自己変革系」+「価値観変革系」が個人的には馴染みやすいが、一方で上からの押しつけ的な「自己変革系」議論に対してはきちんとオブザーブしていく必要があると考えている。いずれにしても、サイトや書籍によって色々なスタイルがあるのが読んでいて楽しいものである。

4409240722フリーターにとって「自由」とは何か
杉田 俊介
人文書院 2005-10

by G-Tools
Posted: 2006年02月06日 00:00 このエントリーをはてなブックマークに追加
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