Columns: Communication
お笑いコミュニケーション化社会
Communication | Society正月番組におけるバラエティ番組の多さには毎年うんざりさせられるが、ドラマも音楽もスポーツもそれぞれ興味関心が異なる中、老若男女の家族が集まる団欒の場において、概ね共通して観られるジャンルがお笑いであるというのは確かである。「広告β:お笑いというイデオロギー?」でも、お笑い芸人の一機能は「マスコミュニケーションの最後の砦」であると指摘されている。
2007年は「KY」という言葉が流行語の1つにも挙げられたが、昨年終わりにちょっとした思いつきで作った「空気読み力テスト」を何故かあちこちで取り上げて頂き、「何故空気を読むことがこれまでよりも重視されるようになったのか」という質問を頂く機会が何度かあった。そのときに答えたことにも通じるが、近年のお笑いの流行と、空気を読むことの重要性に対する再認識はどこかで繋がっているように感じられる。
これは、そもそも「空気読め」という非難が、お笑い芸人の間で使われ始めたという一説があるということもあるが、特に、価値観や嗜好、ライフスタイルの多様化により、共通する興味・関心を持たなくなる中での私たちの対応の方法であるという点においてである。つまり、2人以上のコントでは、ボケやツッコミといった役割が明確になっていることが一般的だが、そうしたお笑いのように、場の役割、キャラクタをあらかじめ踏まえたうえでのコミュニケーションが普段でも期待される風潮である。そうした場の役割を理解し、キャラクタを演じない人がKYと言われることになる。
こうした傾向は、社会の流動性が高まり、同質的でない場でのコミュニケーションを取らなければならない中で、コミュニケーション負荷を下げるという点で一定の効果がある。ただ、持続的な経済成長が約束されていた以前までであればともかく、グローバル化、中国やインドが躍進する一方で、高齢化と人口減少が進む中、いつまでもそれだけでいいとは思えない。社会のパイの再分配という意味でも、都市と地方、世代や被雇用スタイル(正規と非正規など)など様々な属性間で厳しい対立が生まれてくるし、そもそものパイの拡大に向けても、オープンな正直ベースの議論をしていかなければならない(*1)。「政治家よ、『バラエティ番組』に顔を出すな。」ではないが、笑いは心の健康にいいとしても、ネタで終わらせてはいけない、笑いの裏側で起きている構造的変化にいつまでも目を背けていることはできない、のである。
(*1)「ホンネ」と「タテマエ」は必ずしも日本独自の文化ではないようだ。ジャック・ウェルチの「ウィニング 勝利の経営」では、「率直さ」が大事であるとして一節を割いている。
本音を話さない方が楽だから、心に思ったことそのままを話すべきではないと、人は思うようになる。思ったとおりのことを話すと、面倒なことになる。怒り、苦しみ、混乱、悲しみ、恨み。この事態をなんとか収拾しなくちゃ、と感じるだろうが、困ったことにそれは、恐ろしく気まずい、時間のかかることだ。だから他人を悲しませたくない、心の痛みを感じさせたくないと思えば、嘘も方便と決め込み何も言わないか、真っ赤な嘘を言うのが正しい行動だと自分に言い聞かせるようになる。もちろん、人は感情の生き物だから、普段のプライベートな場では「ホンネ」と「タテマエ」を駆使した方が処世術として生きやすいが、将来の日本社会像や、経済、国際関係といった社会の共通の課題については、腹を割って議論しなければいけないと思う。
お笑い芸人も流行り廃りが激しい(波田陽区やレイザーラモンHGを覚えておられるだろうか)が、一発ネタ屋ほどそれは顕著で、きちんとモノを考えられ、喋りができる人たちは司会業などでも生き残っていく。自分について語り、相手のことを聞き、価値観の差異を認識した上で、共通のゴールに対しては共同して取り組めるような対話、日本の中で「異文化コミュニケーション」を始めるべき時期に来ているということではないだろうか。
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