瀧瀬山正法院
本尊 釈迦如来
寺伝に曰く、嘉禎3年当地地頭瀧瀬主水光直の子、三郎経氏なるもの、父の菩提の為に堂宇を建立し、父の法名正法院を以って開基とし且寺号とす、その子孫瀧瀬丹治郎、文明8年之を再興して寺領を附せしも、五十子合戦の当時足利勢の宿営となり、終に焼捨てられたり。天正元年瀧瀬丹介、祖先の菩提を弔し、假に草庵を結び、寛文8年に至り、伽藍の結構成り、初めて東叡山末となりし時に今の寺号を免許ありたるが、実に同年6月10日なりしと言う。天和年中火災に罹り、寺伝を失へり。境内1298坪。
江戸時代の五街道の一つ、中山道に関するサイトで、インターネット黎明期から作っていましたが大分古くなってしまいました。武蔵国児玉郡誌の内容も追加しています。
瀧瀬山正法院
本尊 釈迦如来
寺伝に曰く、嘉禎3年当地地頭瀧瀬主水光直の子、三郎経氏なるもの、父の菩提の為に堂宇を建立し、父の法名正法院を以って開基とし且寺号とす、その子孫瀧瀬丹治郎、文明8年之を再興して寺領を附せしも、五十子合戦の当時足利勢の宿営となり、終に焼捨てられたり。天正元年瀧瀬丹介、祖先の菩提を弔し、假に草庵を結び、寛文8年に至り、伽藍の結構成り、初めて東叡山末となりし時に今の寺号を免許ありたるが、実に同年6月10日なりしと言う。天和年中火災に罹り、寺伝を失へり。境内1298坪。