Columns: Society
格差社会の希望マネジメント
Society「『社会化装置』化する大学」、「『ゲームのルールを変える』ゲーム」と2つ関連するエントリを続けたところで、補足的なエントリを起こしておきたい。それは、格差/階級社会化(*1)が進むこれからの日本において、施政者が市民を支援する名目で打ち出す政策や調査報告が、多分に「希望マネジメント」の側面を持つことになる、という話である。
(*1)これも、結局のところ限定された価値観軸のもとでの格差/階級である訳だが。
言うまでもなく、ここでの「希望」は、「大辞林 第2版」では「(2)将来によせる期待。見通し。」と書かれているものであり、村上龍に「この国には希望だけがない」と書かれた「希望」であり、様々な物議を醸し出す発端となった「希望格差社会」(山田昌弘)で取り上げられた「希望」である。
山田氏は「希望格差社会」の副題で「『負け組』の絶望感が日本を引き裂く」とし、主要な価値観軸(仕事、カネ、恋愛・結婚)において、2極化が進行することで、社会不安が拡大することを指摘した。こうした見方は、一応の説得力を持ってはいる。仕事や家族を守ることは、個人が反社会的行動や非社会的行動を起こすことを食い止めるハードルになりうるが、雇用の流動化や非婚化が一層進んだ将来の日本社会では、守るべき職や家族を持たない人がかなりの割合を占めるようになることが想定される。
もちろん、守るべきものを持たない人がすべて犯罪者予備軍になる訳ではなく、リスクテイクがしやすく、旺盛なチャレンジ精神と組み合わされば素晴らしい成果を上げることも期待されるから、一概に危険視するのは論外である。ただ反面、「さぁ俺を殺せ。日本。」ではないが、ひとたび自暴自棄に陥ったり、ネガティブな意味合いでの深い諦念に囚われると、歯止めをかけるものがないため、「マイクロテロ」や「サイレントテロ」の温床になる、という可能性は必ずしも否定できない。そのため、施政者や、すでに比較的安定した生活を享受できている既得権益層からみれば、多くの人が適度に希望を持っていられることが望ましいということになる。
しかし、限定された価値観軸のもとで自由競争を行えば、特定の目標に希望が集中し、そこからあぶれることで希望を持てなくなる人が大量に生まれてしまう。そこで、希望マネジメント——すなわち、社会・政治・経済システムの維持・発展を意図し、人々の希望を適切にマネジメントすること——の出動となる。
具体的に、希望マネジメントには主に2つの方法で進められると考えられる。
1つ目は、「『社会化装置』化する大学」で書いたような、学校教育その他教育を通じた「身の丈」「健全な諦め」「社会化」の刷り込み路線である。「希望」とは努力により目標が達成されることが実感として持てることで生まれるというのが山田氏の指摘だったが、であるとすれば、目標自体が個人の「身の丈」に合っていなければ不幸になるということである。
「ゆとり教育」がエリートと一般人を峻別しエリートが一般人を導く社会を志向していることを批判的に指摘したのは「機会不平等」(斉藤貴男)が詳しいが、サービス大量消費社会は、残念ながらエリートだけでは回らず、安価で黙々と働く多数のワーカーを必要とする(*2)。その他にも、社会が機能するためには、多様な産業、多様な職業が必要だから、施政者には「職業に貴賎なし」を刷り込ませる強い動機がある(*3)。山田氏は学校の「クールダウン」機能が失われたとし、職業カウンセリングの必要性を主張しているが、今後の教育の見直しについてもこういった機能を復活させることを意図する方向、例えば若年からの職業訓練色の強いカリキュラムの構築に進むのではないか。
(*2)最近では「アマゾン・ドット・コムの光と影—潜入ルポ」が話題になったのが記憶に新しい。
(*3)そもそも実際には「職業に貴賎」があるからこそ先のような言葉が生まれたのだろう。
そして2つ目が、ご想像の通り、「『ゲームのルールを変える』ゲーム」で書いた、価値観変革型の自己肯定化路線である。そもそもの階級社会や2極化などという現象が起こるのも、主要な価値観軸数が貧しいためであり、多種多様な価値観軸、多種多様な夢が全く並列に存在しているのであれば、「オンリーワン」だらけで総体として他人と比較しようがなくなる。ただこれは敢えて明示的な政策として推進されることはないかもしれない。積極的に推進しなくとも、市民側から勝手に上がってくるものを上手く取り込んで後押しして行けば良いのだから。それはちょうど、積極的な社会参加を望む市民が活躍する場としてのNPOが、「三位一体の改革」でますます収入がなくなりコスト削減に悩む自治体から、「市民参加型」を題目に、いつの間にか安価なアウトソース先として都合良く期待されてしまってるような状況に近いかもしれない。
例えば、(何度でも出てくるが)収入の2極化をラテン系で乗り切ろうとする森永氏や、昨年当たりからぽっと出てきた「萌え」文化だか「萌え」市場だかもこの「意図的な多様化」という点では結構疑わしい(ただ単に特定の文化庁担当者や経済アナリストの個人的な趣味のような気もしないでもないが)し、匿名掲示板やSNSのようなオンラインコミュニティも、高ストレス化する労働環境のガス抜きシステムとして有用だろう(*4)。ただし、経済活動からの完全な退却についてだけは恐らく受け入れられないと思われる。ただでさえ高齢者の手も借りたいほどに必要な社会保障費と徴収する税金のバランスが破綻しかけている状況なのだから。
(*4)そういう意味ではこのブログエントリ自身ガス抜きな訳で。
このように、経済活動のようにどうしても譲れない部分は、教育やカウンセリングでコントロールしつつ、市井の人々の中から生まれてきたオルタナティブなはずの選択肢を「想定の範囲内」として社会システムの維持に活用していくのが、希望マネジメントの1つの完成形である。
それではこのような希望マネジメント下において、私たちは何ができるのか。答えはない。オルタナティブな選択肢の提示そのものが希望マネジメントに取り込まれてしまうので、それでも健全な反骨精神、批判的精神を維持し続けるのは容易ではないが、社会をより良くしたいという強い想いを持つ個人の1人1人のゆるやかなネットワークに、今は期待したい気持ちである。
【関連】
[society] 『希望格差社会』他書評
[society] 夢見る機会不平等
どちらもとても面白いのでおすすめ。
問題の本質は努力しない人と弱者を平気で混同する輩がメディアの中に多すぎること?
Posted by: デジ1工担者 : 2006年02月16日 01:16デジ1工担者さん、書き込みありがとうございます。
ここでの「問題」とは、格差社会の問題、という理解でよろしいですかね。
仰る通り、「努力しない人と弱者」を混同するのは問題ですが、実際の政策上の課題として、客観的に区別することがそれほど容易でない、ということはあるかもしれません。
また、一部のマスメディアや識者の場合は、確信犯というか、かなり分かってて「混同」している部分があると思われます。