畳秀山
本尊 聖観世音
天正19年小笠原掃部太夫信嶺の開創也。開山は球山實温といい、武田逍遥軒源信賢の男にして信嶺の室、久旺院尼の兄に当たり、また麟祥院殿春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の叔父なり。信嶺の移封と共に甲州餘村の永岳寺より来つて当山を開き、寛永15年8月12日入寂す。信嶺の法名は開善寺殿徹州道也大居士と号し、慶長3年2月19日卒去、夫人は久旺院殿月清永秋大姉と号し、共に同寺西南の塚上に石塔現存し、猶子信之は龐岩了温大禅定門と号し、その石塔と称するものまた同寺西北なる墓所の中央に在り。同寺現今の記録によれば、信之は酒井忠次の三男(母は家康の伯母)なりしが、入りて信嶺の女聟となり、慶長19年4月26日、45歳にして古河城に卒去し、その孫貞信に至り、越前大野郡勝山城に移封せられ、同所に於いてもまた開善寺を建立したりと言えり。