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Columns: Society

「サービス」は「サービス」か

Business | Society

これまでsocioarcでは「サービス化する社会」「ホスピタリティ・DNA (続・サービス化する社会)」で社会のサービス化について、また、「消費者天国のカラクリ」では消費者がサービス提供者に対して想像力のおよびにくい原因となる、消費者と提供者の非対称性について書いてきた。

近年、日本においてもサービス産業への産業構造のシフトが進む中で、サービス産業の生産性が他の国より低いとされ、経済産業省ではサービス産業の生産性向上が課題として挙げられている(*1)が、その一方で、日本のサービスレベルは概して異常なほど高いように感じられる。列車の時刻表に対する正確さへの要求がしばしばアバウトな欧州諸国に比して非常に厳しい事は、JR西日本の福知山線脱線事故の際にも指摘されていたことであるし、コールセンターの中国移転がきっかけでDELLのユーザサポートの満足度が低迷しているのに対して、上位を獲得している国内ベンダのPC事業の収益性は低いままになっており、何のためのユーザサポートなのか分からなくなっている。ハイレベルな顧客サービスのレベルはどの国でも高いだろうが、日本では、大衆向けのサービスレベルがかなり高いのではないだろうか(そしてそれが恐らく海外からの参入障壁になっている)。

(*1)「新経済成長戦略」として発表されている。

そもそもサービスでは何を持って「生産性」を定義するか自体が難しい。サービス生産性の定義としては労働投入に対して生み出されたサービスの価値ということになるのだと思うが、サービスの価値はあくまで顧客との関係の中で生まれる(≒顧客満足)ので、顧客のサービスへの期待値が高過ぎると、当然ながら同じサービス品質でも価値が低下することなり、「生産性」も低くなってしまう(*2)。

(*2)もっとも、業種によってサービスの中にも機能や技術、モノ的な要素がある割合で含まれており、その部分について改善の余地は大きいのは確かだし、貧弱なマネジメントやムダの多いプロセスといった原因もあるだろう。

提供する機能や技術(機能的価値)での差別化が困難になる中で、時に差別化のポイントとして安易に顧客満足度なるものに頼ったこともまた難しい問題を引き起こしている。高いレベルのサービスや、ホスピタリティのお手本として、リッツ・カールトンのような高級ホテルや、ディズニーランドなどの事例がしばしば出ている(*3)が、これらの企業では採用の時点からも、他人を喜ばせることに最上の楽しみを見い出せる、適性のある人材を集めるとともに、十分な教育や高いサービスを支えるシステムや制度によって高いサービスレベルの実現している。当然、かかっているコストも大きく、それは顧客への対価ということでサービス料金に反映されている。

(*3)ディズニーランドのお子様ランチなど。

一方、他の企業がそうしたホスピタリティや高いサービス満足度を真似しようしてもそう上手くは行かない。より低価格なサービスでは、教育・人材育成の仕組みも十分ではなく、人間的なハイタッチのサービスの向上に追加の投資ができないということになりがちであり、ともすると、サービスレベルの向上は、現場の担当者の自助努力に頼らざるを得ない。言わば、サービス(=無償)残業ならぬ「サービス・サービス」の場が生まれてしまうのである。実際、日本ではしばしば「おもてなし」の精神や、「お客様は神様」といった言葉で「サービス・サービス」によって支えられてきた現場が少なからず存在していたと思われる。

しかし、そうした現場はサービス向上の過剰要求や法務リスクの増加によって破綻の兆しが見えつつある。医療・教育といった生活の質を高める上で重要なサービスにおいて、ここに来て様々な問題が噴出しているが、これは決して一時的なものだったり、個別の問題ということではなく、現場での努力がもはや限界に来つつあることが指摘されている。もともと人のためにすることが好きな人が多く仕事に就いていると思われるが、それゆえに顧客の無理な要求に悩まされるやすい。加えて、少子化により1人1人の子どもに対する期待値が高まっているため、子どもの命にも関わってくるこれらの仕事は訴訟と隣り合わせとなり、極めてリスクの高い仕事になりつつある。民事訴訟の損害賠償は保険によりリスクを外部に移転する方向だとしても、「医療崩壊と少子化」のように、刑事訴訟沙汰になりとしたら管理不可能な個人の残余リスクが高過ぎて割に合わないだろう。

医療・教育サービス以上にスケールが効き難い(=1人のサービス提供者で多数の利用者にサービスを提供することが難しい)介護サービスも同様だ(特に施設型でなく訪問型の場合)。従来家庭内の無償労働で支えられてきた介護は、子どもに頼らない風潮によって「介護の社会化」が進行中であり、非婚化によるシングル高齢者も増加の一途とあって、介護サービスへのニーズがますます高まる一方だが(*4)、「高いレベルの感情労働」 + 「生命に関わるリスク」といった医療・教育サービスと同じ要素に加え、更に「介護等における市場競争」「景気回復と労務管理 その2」などで示されている、需要超過でも賃金水準が上がらないという低賃金水準コンボがある。

(*4)「成長続ける介護保険市場」「 「伸びる産業」として注目に値する高齢者介護事業 」(pdf)など。

こうした中で、供給者が市場から燃え尽きなどにより退出、もしくは若者が参入を避けるのは無理もなく、残されたサービス提供者が需給ギャップによる過剰労働でますます苦しくなって離脱せざるを得なくなってくというスパイラルが発生する可能性がある。インターネットによって情報の共有が進む中で、その業界の破綻度合いは若者の志望度にもますます現れやすくなる。サービスの崩壊を食い止めるには、リスクや労働負荷に見合ったサービスの対価が支払われるようにすることや、ワークシェアリングによって1人当たりの負荷を軽減する事が1つだが、モノとは違い、労働集約色の強いサービスではスケーラビリティが効き難いため、少数の消費者で1人の供給者を支える形にならざるを得ず、そうなると一般の人が対価を支払うのは難しくなる。

教育の私立志向が進み、都心を中心に公立の学校が崩壊しつつあるように、医療や介護においても一部の富裕層にしか支払えない私立のサービスと、必ずしも十分は言えない公的サービスへの分化が進んでいくことになる可能性は十分にあるのではないかと思われる。「サービス」はもはや「サービス」ではない。

【参考url】
[society] 新経済成長戦略
[society] 現代日本産業論: サービス業

[society] 医療制度改革と施設介護サービス
公的介護と私費介護の2つに分化して行く可能性。

Posted: 2006年11月21日 00:00 このエントリーをはてなブックマークに追加
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コメント

「行き過ぎた滅私奉公と受身的精神」や、
「満腹の王様に贅沢な食事を惜しみなく与えるべき」
的な依存思考が生んだ悲劇でしょうかね。
大衆や消費者は何から何まで"依存”することで、
それがいつの間にか”信頼”というものにすり変わってしまったのだと思います。
年々増える現場でのサービス残業、休日返上。上がらない賃金等の諸問題も”常態化”することで、
ますます依存していくのでしょうね。

Posted by: 松野 : 2006年11月22日 00:00

松野さん、コメントありがとうございます。

問題は企業のビジネスがすでにそれを前提として回っていることですよね。それを改善しようとすると会社が潰れてしまうということでは本末転倒です。

欧米では(自分の経験も含めて)一部のエリート以外は余り残業の必要がなく帰れていると思うんですが、その違いがどこから出てきてるんだろうということを考えています。

Posted by: socioarc : 2006年11月26日 19:38

こんにちは、またブログ覗かせていただきました。また、遊びに来ま~す。よろしくお願いします
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Posted by: モンクレール ダウン : 2013年01月12日 10:34
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