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2004年04月25日

「選ぶ側」と「選ばれる側」

Communication | Society

発覚! 人間の男がメス化している? は、今になって「発覚」もないと思うが、男性の様々な女性化の例が紹介されていて興味深かった。

「男性の女性化」ということで思い出すのは、以前「男らしさが変わる時」という副題で書いた記事だ。5年以上前の古い記事で今更拙い全文を読んで頂くのも忍びないので、多少修正してここにもう一度該当箇所を引っ張ってきてみる。

時代を遡ると、昔、生きていくことが精一杯であった時代、あるいは戦争の中で生き残ることが必要であった時代には、肉体的に優れていることが非常に重要な男の条件だった。「男らしさ」という言葉に含められるものは、そうした強さだったのだ。「黙して語らず」が格好いい男であって、べらべら喋るような男は女々しいという評価を与えられた。

しかし、衣食住に不自由しなくなり、また戦争も起こらず平和ボケしている成熟社会においては、そうした生存能力の高さのようなものはもはや必要ではなくなる。そこで今度入ってくるのが、「一緒にいて楽しい」というファクタである。

話が面白い。一緒にいて楽しい。三高、という言葉が死語になって久しいが、「戦争男からコミュニケーション男へ」という宮台真司らの言葉を待つまでもなく、今求められているのはそういった、相手に共感し、相手を楽しませることのできるコミュニケーション能力の高さであることは疑いもないだろう。これは、通常女性がより優れている分野である。

外見についてもそうである。とある調査によれば、平均的な男性の顔から20%ほど女性の顔に近づけた顔が男女両方ともにも好まれる傾向にある、という結果が出ているそうだ。野蛮な男はもう要らない、ということなのだろう。

こうした新しい男性が恋愛競争の中で勝ち上がる一方で、時代の変化についていけない者たちが少なからずいるのももちろん確かであって、そういった男性は必然的に淘汰されていくことにならざるを得ない。

すでに5年以上前に、ずいぶんクリティカルなことを書いたものだが、「男性の女性化」ということでは、「選ぶ側」と「選ばれる側」という観点を付け加えて置きたいと思う。

前回出会わない系では、かつて結婚圧力が恋愛格差を見えにくくしていたと指摘したが、そもそもどうして結婚圧力が高かったかというと、「良妻賢母」思想の中で、職場においては圧倒的な男性優位な社会であり、男性が経済力を掌握していたということがあるだろう。女性にとっては、結婚によって階級を上がることができるし、そうでなくとも結婚市場を勝ち抜くことは生死に関わるため、「選ばれる」「見られる」ことに意識的であり、自分を磨くことが非常に重要だった。ファッションやコスメティックへの関心が高いのも当然である。

一方男性は経済力を握っており比較的「選ぶ側」にあったため、自分を磨きパートナを楽しませることに鈍感な人でもそこそこ仕事ができれば一応パートナを見つけられた。そのためカネを家に持ってくる以外にパートナに与えられるものが何もない男性が増産されてしまった。

しかし、時代は移り変わり、企業の事業環境が厳しくなるとともに、女性の職場進出が進むことで(無論まだ平等とは程遠いが、外資系やIT系では比較的差がなくなりつつある)、男性だろうが女性だろうが、「使えるか」「使えないか」で選別され、男女の平均的な経済力の格差が小さくなる方向にある。

こうなると、恋愛/結婚市場において、経済力を持ち余裕がでてきた女性の本来の強さが前面に出てくる。そこで起こるのは「選ぶ側」と「選ばれる側」の逆転。

日本は今、非婚化の進行が止まらない状況だが、全く結婚する気がない人はさほど増えている訳ではなく、90%の人は少なくとも「いい人がいれば」と思っている。それで非婚化が起こる理由はシンプルであって、「いい人がいないから」、それも特に「イイ男がいないから」である。

今、若者においてはこの「選ぶ側」と「選ばれる側」の逆転に気づいており、「選ばれる」「見られる」ことに意識的になって、冒頭のように、ファッションやコスメティックに気を配り、コミュニケーション能力を鍛え、自分を磨くことに比較的関心の高い男性が増えてきているように感じる。これが「男性の女性化」の正体なのではないだろうか。

しかし、今20代後半から30代の男性の、少なからぬ一部は、これら経済力の低下、パートナに要求されているものの変化、「選ぶ側」と「選ばれる側」の逆転に気づきながらも、アタマを切り替えきることができていない。これが、結婚適齢期の「イイ男がいない」状況を引き起こしている。今はまさに過渡期なのだ、と言える。

関連したところでは、「女が言う『生理的に受け付けない』人の正体」という記事も社会的淘汰圧を生理的に説明したものであり、興味深いので眺めて頂ければと思う。

Posted by seraph : 03:07 | Comments

2004年04月11日

出会わない系

Partner Style | Society

以前、ラブハラスメントの「発見」において、「恋愛のグローバル化」ということを自明のように書いたが、ちょうど出会い系というビジネスモデルという興味深い記事が出ていたので、これに絡めて若干補足しておきたい。

この記事で、「出会い系」について、社会悪か? 社会システムか?という副題がついているが、恋愛のグローバル化、全体最適化を支える社会システムであることは間違いない。しかし、悪かどうかは、人によっては悪であり、人によっては善である、としか言えない。

グローバル化というのは、要は商品価値がグローバルレベルで比較されるということである。今、人件費の高い日本から製造業やIT産業がどんどん中国やインド、そして東南アジアへとシフトしているが、同じことができるのなら、よりコストメリットのあるところを選ぶというのは避けられない方向性だろう。

恋愛や結婚のシーンでも全く同じである。先の記事では、

まさに男女の出会いも従来は組織依存であった。村社会の中での長老に決めてもらう、地域コミュニティの中でのお見合、企業がお嫁さん候補として女性社員を雇う時代など出会いは組織体の信用構造の中でメカニズムとして作られていた。

しかし,出会い系は自分一人の力で数多くの中から自分に会う女性と出会うことを簡単にしている。

とあるが、恋愛や結婚のグローバル化は、商品価値の高い人によりパートナの選択肢が広がるというメリットをもたらす一方で、商品価値の低い人の機会がますます失われることになった。

かつて、非婚者への風当たりが強く、地域社会や企業内の比較的狭いマッチングシステムによって、「よほど」でなければ自分の商品価値に見合ったパートナを見つけられていたところでは、非モテ性が隠蔽されていた。「たで食う虫も好き好き」というのはそうしたシーンでのある種の慰めの言葉であった訳だ。しかし、恋愛や結婚のグローバル化とともに、結婚圧力の低下・シングルの肯定によって、人は自らの非モテ性に自覚的にならざるを得なくなった。言い換えればもはや「誰もたでなんて食わなくなってしまった」のである。

お馴染み「Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-」の「モテない者はますますモテない -男女交際におけるマタイ効果- 」「モテない者はますますモテない -男女交際におけるマタイ効果- その2」もかなり手厳しい。

(すこし脱線するが、ここで興味深いのは、女性と男性のパートナ保有率に差があることである。恐らくここで起こっていることは、逆向きの矢印をつけてあげるとこういうことではないだろうか。

男女交際の増大がもたらすもの(改)

つまり、男性の方が女性に対する敷居が低い、ということ。)

非婚化による少子化が懸念されて久しいが、問題なのは、自分の商品価値に見合ったパートナでなければなかなか上手くいかないにも関わらず、自分の商品価値がビジネスと違って分かりにくく、しばしば必要以上に高く値付けしてしまうことだろう。女性の社会進出によって、昔に比べれば男女の出会いは、遥かに増えているにも関わらず、ハナから「ありえない」と対象外にしていることが多いのではないだろうか。もう一度引用させてもらえば

たくさんの異性と接していれば、それだけ異性に対する評価・判断も厳しくなり、恋愛対象外の人は増えてしまう。

ということになる。

加えて、恋愛や結婚のシーンでも、更に一歩進んだグローバル化、国を越えたそれに関心が寄せられている。ただし、その内容は女性は欧米や(韓流ブームによる)韓国志向、男性はアジア「志向」と、微妙に異なっているようだ。いずれにしても、様々な理由で、商品価値がグローバルで比較されるという時の、グローバルがより広い範囲を意味するものになってきているのは確かである。

誰ですか、今や次元をも超えるとか言ってるのは。

Posted by seraph : 02:24 | Comments

2004年04月04日

マイノリティと正論

Communication | Society

「ある種のマイナーな趣味」を持つ人が反社会的行為を行った際に、マスコミなどがそれを恣意的に取り上げ、同様な趣味を持つ人がそれに対して反論と正当化を行うという構図は度々繰り返されてきた。そしてほとんどの場合、そうした反論は、少なからず論理的に筋が通るものであり、科学的(統計的)にも正しいにも関わらず、それが届くべき人たちに全く届いていない。

しかし、その届かなさを、相手だけの責にするのは間違いである。今回はそんな話。

何らかの言葉を発するというのは、モノローグである場合を除けば、聞き手や読み手に何からの判断を求めたり、行動を促したり、あるいは単に気持ちを共有したりするために行うものである。もしそれが相手に届かないのであれば、単なる自己満足に終わってしまう。

相手の行動を促す「コミュニケーション術」の中の一節はこの「言葉が届かない」問題を引き起こす、当たり前であるにも関わらず、理性の人がしばしば忘れがちな理由について、端的に書いている。

「何をいうか」という中身の説明をする前に考えねばならないことがあります。それは相手に「メッセージを受け止めてくれる心理状態」を持ってもらうことです。人間は感情を持った動物であり、それを無視したコミュニケーションは、内容がいかに正しく論理的であっても失敗してしまいます。相手が無意識に持つ心理的なバリアをいかに解除するかが課題となります。

ビジネスの場面でさえそうなのだから、趣味嗜好の場面は言うに及ばすである。こちらはもっと強烈だ。

人は感情80%、論理20%で動いているわけではない。ましてや感情90%、論理10%で動いているわけでもない。

感情100%で動いているのだ。

「キモい」という単語は典型的で、言うまでもなく「気持ち悪い」という意味だが、この感覚はあらゆる論理を無効化する、思考停止なものであるにも関わらず、生理的に抗い難い感覚であり、これをカイゼンすることはほとんど不可能である。

自らの正当性を論理で納得させようとさせる余り、相手の感情に無頓着になってはいないだろうか、ということは十分に注意する必要がある。似たような理解されない悩みを抱えているマイノリティにはすんなり納得できても、本来届くべき相手は、タブンその正論を読んでおらず、サイトに近づこうともしていない。具体的にどうすればいいのかというのはやはり一介の正論吐き人間としては途方に暮れてしまう訳だが、空回りしているぐらいなら、より「生産的」な活動にリソースを割くというのもひとつの手かもしれない。

Posted by seraph : 01:27 | Comments