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2004年05月28日

ベーシックラブ

Society

馬の名前ではない。

個人主義の発展と、恋愛格差の拡大による非婚化・少子化が進行する中、恋愛や性愛という「私的」な問題については、公的機関が政策により何らかの対策を打つことが難しい、ということを前回マス政策の限界にて書いた。とは言え、可能性として、ほとんどファンタジーというか電波のレベルになってしまうのだが、少し思考実験(机上の空論)を行ってみよう。

人間の欲望は人それぞれであり、多種多様で限りがないが、多くの人が持っている主要なものとしては、「カネ(物質的充足)」と「恋愛/セックス(精神的/身体的/社会的充足)」の2つが挙げられる。こういった欲望がボジティヴに満たされようとして遂行される活動は、原則として社会をより良くするものであると言えるが、ネガティヴに満たされようとして遂行される活動は、ある種の犯罪行為に繋がりやすい。当然のことながら、「カネ」と「恋愛/セックス」が充足していない人全てが犯罪者であるはずもないし、犯罪者予備軍である訳でもないが、世の中のニュースを眺めていると、「カネ」と「恋愛/セックス」が充実していればまた違ったストーリになっただろうな、と思わされる例も少なくない(統計的に比率が出ている訳でなく、単なる偏見)。

「カネ」の場合、極端な場合には生死に関わるだけに深刻である。折しも、日本で100万人とされる「ひきこもり」や76万人いるとされる「ニート(NEET; 無業者)」の問題が一部で関心を集めている。主に若い世代に多いこれらの人たちは、現状親が健在で子供を養える状況なので、ほとんど顕在化していない(多くの人が無関心である)が、親の世代が退場してゆく数年?10年のうちには、高齢化したフリーターと合わせて社会問題化する可能性が大きい。既存の社会福祉の枠組みでも、生活保護法に基づく経済的支援があるが、「甘え」や「自己責任」の問題として捉えられかねない「ひきこもり」などの場合、生活保護を受けることは必ずしも容易ではないと思われるし、どういった人が生活保護を受けられて、どういった人が受けられないか、という線引きが困難で、これ自体不公平感の残る仕組みである。

それに対し、「ベーシックインカム」というアイデアがある。これは年金や生活保護といった従来の経済支援とは異なり、総ての市民に最低限度の生活が可能なだけの一律の経済的支援を行う、というものである。

端的に言えば、ほとんどの自治体の財政が危機的だったり、国家にしても苦しい状況の中で「総ての市民に最低限度の生活が可能なだけの一律の経済的支援を行う」というこのアイデア自体がすでに非現実的である(財源を富裕層に求めれば大量の国外退避が懸念される)のだが、これを恋愛・性愛の場面に適用してみるとどうなるだろうか、というのが今回の思考実験(机上の空論)である。つまり、「ベーシックラブ」あるいは「ベーシックセックス」という発想である。

「ベーシックラブ」、つまり、「総ての市民に(それが必要とされる場合)最低限の恋愛経験を提供する」ということだが、これは少々ファンタジー過ぎる。というのも、恋愛は1人ではできないが(*)、互換性の高いカネに比して人的資源は1人1人が異なるため、最低限の恋愛経験を提供するためのリソースを確保しようがないし、大体人の心をどうかできるものではない(特に女性の場合「生理的に受け付けない」という感覚がある)。

(*)小谷野氏であれば、片思いでも恋愛だと言うかもしれないが。

そこで、恋愛のある場面のフリをする、つまりせいぜいデートごっこをするというサービスが考えられる。もっとも、普通に恋愛できる人にとっては現実的に意味のないサービスなので、不公平感があり、公的には難しいかもしれない。とすれば、民間やNPOの出番である。以前から当サイトをご覧の方はもうお気づきかもしれないが、恋愛体験デーティングサービスというジョークは、こういった「ベーシックラブ」のコンセプトがその出発点だった。

一方、「ベーシックセックス」となると、比較的分かりやすく極めて安価で公娼を復活させるということが想定される。公娼と言うと何だかある種の人たちから猛反発を受けそうだが、60歳の女性であっても、望めば若い男性とセックスができるし、もちろんクィアなどもカバーされる訳で、あくまでフラットな「公的サービス」である。民間レベルでは基本的にすでに性風俗があるのだが金銭的に「総ての人に」と言うには少々無理があると思われる。例の「セックス奉仕隊」の方が想定しているものに近い。加えて、公的サービスとして立ち上げることにより、莫大な雇用創出が期待される。

このようなサービスは、(特に公的サービスとしては)決して現実味があるものではない。しかし、ビジネスやカネのアナロジーで捉えようとする中で、こういった思考実験を行うことで、恋愛や性愛固有の特徴的な性質が浮かび上がってくるものと考えられる。

【関連文献】
学校から職業への移行を支援する諸機関へのヒアリング調査結果?日本におけるNEET問題の所在と対応?
生活保護110番
世界規模のベーシック・インカム

Posted by seraph : 12:13 | Comments

2004年05月25日

マス政策の限界

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少子
酒井 順子



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王様の耳はロバの耳
酒井さん、よく書いてくれました。
カイロ宣言

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いくら美人で仕事ができようが、30歳以上の未婚女性は全て「負け犬」であるとし、昨年良くも悪くも話題になったのが酒井順子氏の「負け犬の遠吠え」だが、それより前に同じ著者によって書かれたのがこの「少子」というエッセイである。文庫本版は表紙が可愛らしい(?)卵子と精子をモチーフにした絵柄で、何ともリアル書店では買いにくい本だ。

社会に目を向けてみると、非婚化・少子化が凄い速度で進み、一方では長寿大国として年金問題が大変なことになっているのが今の日本であり、個人主義が進んだ現代において、政府の偉い人は表立っては言えないもののホンネは「産めよ増やせよ」の勢いで少子化対策にしゃかりきになっているらしいのだが、何をやっても一向に効果がないようだ。もちろん、傍目にも彼らの政策がピント外れであることは分かる(結婚対策としての地方でのお役所主導によるお見合いパーティや、農村に来てくれる女性に送られる結婚「ボーナス」などはその最たる例だし、育児休暇取得を促進すれば良いというものではないのは明白)が、この「少子」はその感覚を否応なく強化してくれる。

見出しを見れば、それは一目瞭然。筆者自身が「産まない理由」を1つずつ章を立てて綴っているのだが、これが、

  • 痛いから
  • 結婚したくないから
  • うらやましくないから
  • 愛せないかもしれないから
  • 面倒臭いから
  • シャクだから
  • 男が情けないから
という具合。多分に「私的」な理由なのである。

お役所のマス政策による公的サービスは、「アファーマティヴアクション(*1)」を除けば、基本的に「公平」であり「公的」であるのが原則である。しかし、著者が挙げるような「私的」な意識レベルの問題は、「公的」なサービスで解決することが難しい(「痛いから」「面倒くさいから」は社会的にある程度解決可能なはずだが)。(特に女性の)個人レベルの感情や意識に気づかないフリをして(本当に気づいていないのかもしれないが)、年金のような社会問題(*2)を何とかしようと、無神経に施策を振り回すところに結婚・出産における無策がある。

(*1)特定のマイノリティのための優遇政策。

(*2)世代間扶養である現在の日本の年金制度の元では、労働者人口の現象は致命的。

「私的な理由」としては、「男が情けないから」という言葉で端的に表された恋愛格差の拡大もまた非婚率の上昇と結果的に出生率(*3)の低下を招く原因の1つである。結婚が、いかに(階層上昇を目的とした)経済目的的・ビジネス的なものであったとしても、見合いは本当に最後の最後の最終手段で、あくまで恋愛のような「自然な出会い」を望むのが近年のパートナスタイルである訳だが、恋愛というこれまた「私的」な問題は、やはり基本的に公的サービスでカバーできない。恋愛障害者への「アファーマティヴアクション」があり得るのかどうか分からない(一体どんな形で?)が、恋愛できなくても別に死ぬ訳でもなく、周囲からは単に「努力不足」で「自己責任」であるとしか捉えられないからだ(*4)。

(*3)こういった統計上の数字自体がすでに個人の気持ちを無視した乱暴なものな気がしないでもない。

(*4)政策において「公平性」は原則として「機会の平等」を意味する。しかし恋愛はもともと機会が平等なことになっている。これに対して、「結果の平等」を実現する政策が「アファーマティヴアクション」である。

個人主義が浸透したことによって、子供に夢を託さなくても自分で自分の夢を、自分の幸福を追い求められるようになったのは好ましいことであると言うべきだし、恋愛や結婚といったパートナスタイルも飛躍的にその自由度が向上した。しかし、それがゆえに選択の自由に悩まされる人や無能力により事実上の選択肢の無さに直面する人を生み出し、一方でマス政策およびマスメッセージがすっかり無力化してしまった(*5)。果たして、恋愛や結婚のシーンで、マス政策を超えた、「ワントゥワン政策」は可能なのだろうか。

(*5)自分とは直接関係ない、あるいは直接関係あることに想像力が及ばない事柄については、依然としてマスコントロールが容易なのだが…。

【関連資料】
「産まない」時代の女たち―チャイルド・フリーという生き方
少子化対策の的は外れるばかり
合計特殊出生率が東京で衝撃の1.00
非婚化の先に見える多民族社会
空前の生涯独身時代
厚生労働省関係審議会議事録等 その他(検討会、研究会等) 「少子化社会を考える懇談会」参照

その他、教育問題と並んで、誰でも一家言持つような話題らしく、右から左までネット上に山のように少子化問題/少子化対策について触れたページが存在する。

Posted by seraph : 02:42 | Comments

2004年05月18日

恋愛マニュアルの是非

Communication

先日、こころの「マクドナルド化」について書かれた本について触れたが、マクドナルドなどのようなファーストフードやコンビニ等で行われる接客の「マニュアル化」は、「画一的である」「心がこもっていない」など、通常良い語られ方をしない。一時期ブームになったスターバックス(求人情報を参照)などは、こういったファーストフードの無機質な印象を与えるマニュアル接客を改めカフェ体験を高付加価値化するため、「ノン・マニュアル接客」を掲げ、スタッフのオリジナルな感性・人間的魅力に任せる戦略を取ってきた(*)。

(*)近年伸び悩んでいるが、店舗拡大の中で、スタッフの質を揃えにくくなり、かつ創業者の情熱が末端のスタッフまで行き渡らなくなってきていることが理由の1つとして考えられる。ここは企業を分析するページでないので深くは突っ込まないが。なお、マニュアル接客が必ずしも悪い訳ではなく、内田樹氏が無印の悪いおじさんで指摘しているように、コンビニ店員の機械的な対応が逆に快適である場合がある。消費者って難しい。

恋愛のようなより高度なコミュニケーションにおいても、スキル不足で悩んでいる人は多いらしく、『モテる技術』『すべてはモテるためである?「キモチワルイ」が「口説ける男」になる秘訣』を初め有象無象の恋愛マニュアル本が出ており、たくさんのカモ読者がいる。とっかかりやすいのが、ネットでも無料で利用できるサイト『恋愛攻略サイト「マニュアル男ですが何か?」』で、タイトルにも、マニュアル人間に対するサイト作者の自己否定的なニュアンスが見て取れるが、こうした恋愛マニュアルを所詮マニュアルだから、とあなどるのは間違っている。加えて、このサイトは、必ずしも恋愛だけでなく、ビジネスシーンでもほとんど共通で有効なスキルを扱っている。恋愛のコミュケーションとビジネスコミュニケーションには驚くほど通じるものがあることが分かる。

もちろん、一字一句真似てれば必ず上手く行くというものでは全くないし、そもそもフツーに恋愛ができる健常者にとっては無用の長物かもしれない。しかし、恋愛を苦手にしている人の場合、マニュアルをただ軽視して自己流にこだわるのもまた愚行だろう。

そもそも、マニュアルとは、上手く行っている人の行動を観察してノウハウ化したものであり、今の言葉で言えば、暗黙知を形式知に変える、ナレッジマネジメントの走りである。マニュアルを学び、実践することで最低限のスタートラインに立つことができる訳だ。自己流の個性豊かなコミュニケーションスタイルは、基礎がクリアできている上で初めて差別化ポイントとして有効に機能する。まるで基礎ができていないにも関わらず、マニュアルを見下し、「個性」という名の自己満足スタイルにこだわるのは危険極まりないのではないだろうか(*)。

(*)年齢を重ねると、わざわざ自分を変えるのが億劫になってくる。そして、今の自分を受け入れてくれなければ、付き合って貰わなくても結構、という態度に出てしまう。これが一番良くないのだと思う。「属性と交流分析」にもあるように、「他人(社会)を変えることはできない」のだから、自分を相手に合わせるしかない。

ただ、この手のマニュアルは、通常恋愛の達人が書いているものが多く、凡人どころか、恋愛が困難な人には到底真似できなかったりするのはご愛嬌。エリート営業マンが書く営業ハウツー本と似たようなものだろう。当然持って生まれた素質もある。女性の顔と身上相談

女性の顔を見ずに、本当にその人のためになるような的確なアドバイスなんて出来っこない。メールで相談を持ちかけられて、それに答えたとしても、それはあくまで平均的な女性を仮定しているのだ。美人と不細工では、与えるべき処方箋が違う。
なんかは割と笑えない話だ。

いずれにしても、「なるほど」と納得して読んだはいいが、読んだだけで満足して実践に移さなければ意味がないのは、やはり恋愛もビジネスも同じようである。

【その他のマニュアルサイト】
いちからはじめるファッション入門マニュアル
ひきこもりのための外出マニュアル

Posted by seraph : 00:36 | Comments

2004年05月13日

一億総恋愛社会から恋愛階層化社会へ

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先日、当サイトで、

2004年、"恋愛バブル"も崩壊する…?
バブルが崩壊した後っちゅーのがイマイチイメージできないんですが。要は「一億総恋愛社会」から勝ち負けのはっきりした「恋愛階層化社会」になるってことでしょうか。
と取り上げたが、これに関連して、実用ベースのコミュニケーションスキルについて研究されているシロクマ氏の汎用適応技術研究さんで【恋愛バブルの崩壊、という記事によせて??恋愛において普遍的に有効な適応戦略についての小考察】という記事が書かれており、興味深く拝見させて頂いたので、遅ればせながら若干追記しておく。

シロクマ氏の

実際に恋愛にコミットし得る大多数の男女にとっては1980年代も現在も“恋愛階層社会”であり、持てる者と持たざる者の連続的なヒエラルキーは確実に存在している。
という指摘は、率直に言って「その通り」だと思う。ただし、「一億総恋愛社会」という言葉に込められたニュアンスについては補足しておきたい。「一億総恋愛社会」は言うまでもなく高度経済成長時代からバブル期に至る「一億総中流社会」をもじった言葉(*)であるが、「一億総中流社会」は、言うまでもなく、大多数の家庭が平等であったことを「決して意味しない」。

(*)他のエントリを読んで頂いてもお分かりのように当サイトでは度々恋愛/結婚活動を経済活動のアナロジーで説明する。これは恋愛/結婚活動が明示的にカネに換算されないだけで、その実が自らの資源を武器にした「物々交換」によるある種の市場経済における活動であると捉えているためである。

確かに平均的な経済的豊かさは向上したかもしれないが、そこには「連続的なヒエラルキー」が歴然と存在していた。市民はあたかも自分たちが「中流」であると「勘違いしていた(させられていた)」だけである。何のことはない、右肩上がりの時代が過ぎ去ってみて分かったのは、大多数の家庭が「下流」でしかなかったという事実である訳だ。そして現在、「勝ち組」と「負け組」で年収が平気で100倍変わってくる「階層化社会」への道を着実に進みつつある(*)。

(*)ひきこもりの問題に精力的に取り組まれている上山和樹氏のFreezing Pointさんからの又引きによれば「アメリカの上位1%の資産合計は、下位95%の資産合計を上回る」らしい。

村上春樹やトレンディドラマが牽引したらしい「一億総恋愛社会」もまた、この「一億総中流社会」のニュアンスを継承している。つまり、大多数の男女が平等に恋愛できることを意味するものでは「なく」、そこには指摘されているような「連続的なヒエラルキー」が常に存在する。にも関わらず、誰もが「自分だって恋愛できるはずだ」「(相応の年齢になれば)誰もが恋愛をするのが当然/自然だ」、あるいは「恋愛してから結婚するものだ」という「常識(同調圧力)」がある社会である。…そんな社会への違和感を冒頭のお2方は言いたいのではないかという推測がこの言葉にはこめられている。

一方「恋愛階層化社会」という言葉はこの「常識」が「勘違い」であることが明確になる、という意図で使用している。パートナへの要求水準が厳しくなり、経済格差ならぬ恋愛格差がはっきりとした恋愛市場では、市場競争に参加できない、全く恋愛に縁がない人の割合が増加する(出会わない系も参照)。また、階層間の移動も困難であり、そこではヒエラルキーはもはや「非連続的」になる。要は、小谷野氏は「誰もが恋愛できる訳ではない」、だから「別にあくせくして恋愛しなくてもいいんだよ」ということを言いたいのではないか。

ただ、「別にあくせくして恋愛しなくてもいいんだよ」というのが非モテ系の人にとって、慰めになるのかどうかは疑問であり、単に恋愛シーンから疎外された非モテの自己正当化に感じられてしまうきらいがあるのは否めない(ラブハラスメントの「発見」も参照)。シロクマ氏が「もてない男」の筆者である小谷野氏に対して

1980年代以降の恋愛シーンに乗り遅れた事に対するルサンチマンをどことなく感じてしまった
というのはその意味でツボをついている。「恋愛バブルの崩壊」は予測というよりは、お2方の「希望的観測」に読めて仕方がないのである。

なお、

異性との交際に関する個人の適応を視座の中心に添えた場合、現在の恋愛シーンがどう変化するか・現在の恋愛シーンが誰によって引っ張られたものかといったことを教えてもらってもあまり“実益がない“と感じてしまう。
私がこのサイトで重視する視点は、個々人が現在そして将来の恋愛(及びその他の適応)シーンにおいていかに有利な適応を達成するかの方法論の模索にあるわけだが、このテキスト及び『もてない男』からは個人の恋愛適応に関して役立ちそうなエッセンスがあまり抽出できなかったのだ。
という点については、当サイトも個人より社会を重視する傾向が強いので、次回はたまには個人レベルのスキルの話題について書こうと思う。

Posted by seraph : 07:01 | Comments

2004年05月11日

私的領域と公的領域

Book | Society

引き続き軽い話題で。電車の中で化粧をするのは罪? で思い出したのが、先日読んだ「ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊」という本。

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊
正高 信男



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問題提起の本
現状認識としてはいいですね
サル学から現代の若者を見ると・・・

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この本、話が発散していて論旨が不明だし、まぁよくある「最近の若い者は…」的な老害本と言ってしまえばそれまでなのだが、サルの研究者ということで、着想は割と面白い。例えば、タイトルの一部にもなっている、ケータイについては、「情報」としては意味のない、単に繋がっていることを確認するためだけに使われているケータイメールによるコミュニケーションついて、サルとの類似性を指摘するといった具合である。

その中で、地べたに座る若者や、電車の中で化粧をする若い女性について触れられているのだが、挙げられているがまさに先の

私:「化粧をしていて恥ずかしくない?」
妹:「電車の中の人には二度と会わないから恥ずかしくない」
  (知っている人の前では出来ないようだ)

そのもの。つまり、私的領域と公的領域を上手く切り換えられず、公的領域を拒絶して私的領域から出られなくなっているという指摘である(本文中では「家のなか主義」という言葉で書かれている)。筆者は本来公的領域であるべきところ(ここでは電車の中)に私的領域を持ち込んでしまう若者と、全国100万人とも言われる「ひきこもり」が、この同じ公的領域への対応力不足という点で同じ理由に帰すことができると書いている。

ただそもそも「旅の恥はかき捨て」なんて言葉があるぐらいで、日本人はもともと公的領域に私的領域を持ち込んでしまう傾向がある。先の現象も共同体の内と外の境界が変わったと考えることができる。「罪」でなく「恥」の文化にあって、わざと「適度に」恥に鈍感になることでストレスをためずに外界と接することができているのではないだろうか(逆に、そこで鈍感になれない人がストレスをためることになる)。

ともあれ、切り口のユニークさと論理の飛躍具合を楽しむ本である。

一方、同じ共同体の中、同じ私的領域の中では、高い共感能力、高度な感情マネジメントが求められる。これを「心理主義化社会」とか「マクドナルド化」といった言葉で説明したのが森真一氏の「自己コントロールの檻?感情マネジメント社会の現実」である。

自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実
森 真一



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社会学のちから
説得力あります・・・

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経済的に豊かになってこころが貧しくなったのではなく、逆に、社会から非常に高い「こころのスキル」を要求されるようになったため、ついて行けない人が出てくるようになってしまったという指摘であり、ドキリとさせられること請け合い。

Posted by seraph : 01:55 | Comments

2004年05月08日

属性とエゴグラム

Communication | Subculture

かつて何度もネットで話題になったことのある「エゴグラム」と恋愛系ゲームのキャラクタの属性には何らかの関係があるのではないか。そんな着想から、交流分析について軽く考えてみる。心理学については(というか何についてもだが)素人なのでトンチンカンなことを書いていたら遠慮なくご指摘頂ければ幸いである。

交流分析についてはTAネットワークが詳しい。その中によれば、

交流分析(Transactional Analysis:TA)は、1957年アメリカの精神科医エリック・バーンによって創られた人間の交流や行動に関する理論体系で、同時にそれに基づいて行われる治療技法です。

ということである。また、

「過去と他人は変えられない。変えうるのは自分だけである。」

ということをポリシとしている。

「エゴグラム」は交流分析の成果を分かりやすくしたものであり、心のエネルギーを5つに分類してその強さを判定する。その5つとは、CP(Critical Parent; 父親的で批判的な親の心)、NP(Nurturing Parent; 母親的で養育的な親の心)、A(Adult; 大人の心)、FC(Free Child; 自由な子供の心)、AC(Adapted Child; 順応な子供の心)である(エゴグラムとはも参照)。これらに対して従来属性データベースに抽出してきたキャラクタの属性は、以下のようにマッピングされると考えられる。

CP…(多少ズレがあるが)「真面目(155人)」
NP…「お姉さん系(44人)」「世話焼き(6人)」「家庭的(206人)」「姉御肌(24人)」
A…「大人(116人)」「クール(131人)」「頭脳明晰(40人)」
FC…「子供系(129人)」「お姉さま系(121人)」「元気系(287人)」
AC…「お子様(82人)」「内気(183人)」「大和撫子系(60人)」

※()内は2004/05/08現在における当サイトのキャラクタデータベースに登録された各属性の数。

実際の1人のキャラクタは、ただ1つの心によって成り立っている訳ではなく、エゴグラムのそれぞれの心のエネルギーがあるバランスで構成された形で(ライタによって記述され)ストーリに登場する。そのもっとも特徴的な性質が、「属性」としてユーザに認識される訳である。属性数としてはCPが少ない傾向が見られるが、これは父性の欠如が度々指摘される恋愛系ゲームのキャラクタ傾向を反映していると言える(そもそもこのデータベースには女性キャラクタしか登録していないので無理もないが)。

また、あるエゴグラムの状態と、あるエゴグラムの状態には相性の善し悪しが存在する。恋愛系ゲームをプレイして「快」を感じるためには、こうしたエゴグラムの相性が重要であることは容易に想像される。このことから、恋愛系ゲームで人気のあるキャラクタのエゴグラムを分析することによって、主要ユーザ層のエゴグラムを推定することもできそうである。

ところで、「エゴグラム」は交流分析の成果の一部であると書いたように、交流分析ではこのPACを適切なタイミングで相手に出すことによりスムーズなコミュニケーションが可能になるとしているが、その最も標準的なパターンは以下の図1のように、やりとりが平行に行われる場合(交流分析の言葉では「相補交流」と言う)であるとされている。

相補交流
図1 交流パターン (c)TAネットワーク

これは恋愛系ゲームのシーンでは、「C(主人公)←→C(ヒロイン): バカップる(ベタベタする)」「P(主人公)←→C(ヒロイン): 慈しむ、傷を癒す」「C(主人公)←→P(ヒロイン): 甘える、癒される」「A(主人公)←→A(ヒロイン): 理性的/知性的な会話(恋愛系ゲームでは余り見られない)」といった関係として捉えられる。自分がどんなエゴグラムを持っているかによって、どの種類のコミュニケーションが最も「自然」であり、「快」と感じるかも当然変わってくるだろう。

恋愛系ゲームの実装にあたって、こういった心理学の成果を企画・マーケティングに生かして、ユーザ層を想定し、どういった性格要素を持ったキャラクタを出すか、あるいはどういったストーリを提供するか考えてみるのも面白いかもしれない。

【参考文献】
TAネットワーク
エゴグラムって何?

Posted by seraph : 14:18 | Comments

2004年05月04日

良いところを見つける

Communication

人間には2種類の人種がいる。すなわち、「良いところを見つける」人種と「悪いところを見つける」人種である。

…ということを、人気のBlog、Passion For The Futureさんの「おしゃべりな人」が得をする おべっか・お世辞の人間学を読んで思った。

「おべっか・お世辞」という言葉には余りいい響きがないが、適切なTPOでの「おべっか・お世辞」は悪いどころか、コミュニケーションの潤滑油になる。明らかに的外れな「おべっか・お世辞」はかえって不快感を招いてしまうかもしれない。しかし、どんな小さいことでも掘り起こしてさりげなくほめることができれば、相手も悪い気はしない。似た本として「ほめる」技術なんてのもある。相手の「良いところを見つける」タイプの人と、「悪いところを見つける」タイプの人では、こういった場面での行動が全く異なるものになるのは想像に難くない。

ひとたび、ビデオゲームやPCゲームに目を転じてみると、いわゆる「レビュー」サイトでも、同様な現象が見受けられる。つまり、ゲームの「良いところを見つける」人と、「悪いところを見つける」人の違いである。もちろん、ゲーム製作者にとっては、べた褒めされるよりは、問題点を的確に指摘してもらえる方がありがたいのかもしれないが、一方で悪いところばかりあげつらわれてはモチベーションは下がるだろう。褒める所と課題を指摘する所の適切なバランスが必要となる。

そもそも、ゲームを遊ぶというのは、楽しむためにやっているはず。とにかく欠点を見つけてやろうとあら捜しをするプレイが楽しいとは思えない。出来る限り良い所を見つけ、そしてメーカにはそこを伸ばして貰おう、という姿勢の方が楽しくないだろうか? (欠点を見つけるのが楽しい人はごめんなさい。そのままでいいです。)

一時が万事、物事の「良いところを見つける」ことが習慣になっている人は、「悪いことを見つける」ことが習慣になっている人よりも、「楽しく生きる」という面で、大きな違いになってくるはずだ。

「良いところを見つける」スキル、身につけたいものである。

Posted by seraph : 00:58 | Comments